おれが杉田水脈批判にいまいち乗れない理由

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やっぱり人殺しの顔をしろ

杉田水脈の、問題になっている文章について、全文を目を通したわけではない。わざわざ全文に目を通した人間の目を信じる、ということになる。しかし、信じているのに、どうも杉田水脈の言説に対抗する言説に乗れないところがある。だから、おれははてなブックマークでこんな言葉を残した。ケチを付けた、といってもいいかもしれない。

 

日本社会を覆う「杉田水脈問題」で私たちがいま試されていること(原田 隆之) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)

先細っていく日本社会の金を、職を、死に物狂いで奪い合ってるのが現状であって、貧しく余裕のない人間には、だれか別の弱者にリソースがまわったら、自分がはじき出されるという恐怖がある。ただ経済の話だろう。

2018/07/31 11:48

 あるいは、

「LGBTには『生産性』がない」を日本人がスルーしてはいけない理由|アメリカはいつも夢見ている|渡辺由佳里|cakes(ケイクス)

理屈としてはご説ごもっともだが、この社会で自分を「人として価値がある」と、いったいどうやって感じることができるのか見当がつかない。

2018/08/01 18:19

 

ご説ごもっとも。理屈として、おれが理解できないわけはない。おれは座学が苦手ではなかった(算数、数学除く)。理屈はわかる。わかるし、このような状況でどのような振る舞いをすれば、世の中の良心的とされる人間に受け入れられるかもわかっているつもりだ。

そのつもりだが、どうもおれは乗り切れないところがある。その一つには、人権や多様性への許容というお題目、もちろん当事者にとっては切実な問題、それについてはわかる、わかるが、杉田水脈批判のどこにも金の話が出てないところに違和感を覚える。

「生産性がない同性愛の人たちに、皆さんの税金を扱って支援をする、どこにそういう大義名分があるんですか」

この文脈で「生産性」が問題とされ、基本的人権というものが何かと引き換えのものではない、と言う理屈はわかる。わかるが、問題は「皆さんの税金を扱って支援」のところにもあるのではないか、ということだ。

この日本という国、もはや先細る一方であって、残された少量のパイを奪い合って死に物狂いの生活を送っている人間が少なくない、下手すれば多いというのが現状じゃないのか。その状況下にあって、自分のパイが誰かに食われるとなったら、そいつを殺してでも自分が生きたいと思うのは……自然なことではないのか。

それについては、おれが数年前に書いたことから、なにも変わっていないように思える。

d.hatena.ne.jp

あるいは、もっと強化されているのかもしれない。ともかく、LGBTという人への生理的な嫌悪感というのはあまり理解できないのだが(性の明確な区別を常時もっている動物は、自然界ではむしろ限られている多田富雄)、生活が苦しいおれへの負担が増える、あるいは、補助が途切れる(おれは今日、自立支援援護/精神通院医療の更新をしてきたばかりだ)ことへの恐れがある。そこで、人殺しの顔をして、あるいは人殺しの顔を隠して、彼らを救う必要はない、と言いたくなる人間の心情は理解できるのだ。

要するに、問題は生産性を基準とした人間への見方などではなく、「税金を使って支援」の方にあるのではないか。いや、それが全てではないにせよ、それについての言及がないのは片手落ちではないのか、という思いが否めない。理屈ではわかる、ご説ごもっとも、しかし、そのご高説が貧弱な基盤にかろうじて立っている、おれの生活を豊かにするのか? 回り回って豊かにするのだ、と言われるかもしれない。しかし、おれにとって、おれのような無能者、生産性の低いもの、この社会を生きるのに向いていない者にとっては、明日の金、いや、今の金が必要なのだ。今日の晩飯、明日の昼飯、来月の家賃が必要なのだ。心の豊かさや正しさなどどうでもいい、屋根の下で寝たい、飯を食いたい。インテリゲンチャには馬鹿にされ、心優しきものには唾棄される物言いだろうが、おれはそこを無視して人権の尊さを謳ったところでなんなんだ、という思いがある。

そもそもおれは生きるに値するのか

そして、これはおれの個人的な問題となるのだが、そもそもおれは生きるに値するのか、という話になる。これはおれにとって抜き差しならぬ問題であって、ここから先は友達も恋人も家族も通さない話だ。

おれには、おれがこの世に生きていていい感覚というものがない。まったくない。いくら向精神薬を飲んでも、酒を飲んでも出てこない。基本的人権やらについて考える土台がない、といっていい。この抜き差しならぬ問題を、実存という言葉にしていいのかどうか、高卒の浅学非才のおれにはわからない。だが、その心持ちによって、たとえば杉田水脈のようなものを批判するとしても、足場がない、足腰立たない。生産性のないものは生きる価値がない。その方がおれにとってしっくりくる。おれのような精神疾患者のがらくたが、少なくとも今現在の日本に居ていい理由を見つけることができなのは当たり前だ、ということだ。

ブレイディみかこ『労働者階級の反乱 地べたから見た英国EU離脱』を読む - 関内関外日記

 日本の貧困者があんな風に、もはや一人前の人間ではなくなったかのように力なくぽっきりと折れてしまうのは、日本人の尊厳が、つまるところ「アフォードできること(支払い能力があること)」だからではないか。それは結局、欧州のように、「人間はみな生まれながらにして等しく厳かなものを持っており、それを冒されない権利を持っている」というヒューマニティの形を取ることはなかったのだ。「どんな人間も尊厳を(神から)与えらている」というキリスト教的レトリックは日本人にはわかりづらい。

 けれどもどんな人間も狂わずに生きるにはギリギリのところで自尊心がいる。自分もほかの人間と同じ人間なのだ。なぜならその最低限のスタンダードを満たしているから、と信じられなければ人は壊れる。

おれはその最低限のスタンダードを信じられないから、壊れている。おれ一人壊れているなら、この世のにとって塵ほどの意味もないだろう。だが、これがおれ一人でなく、少なくない人間、あるいは、過半数の人間だとしたらどうだろうか。そりゃあ杉田水脈的なものに賛意を示す、あるいは賛意を隠して支持することになるだろう。杉田水脈的なものが与党自民党的なものと結合していていたとしたら、自民党に対して同じ態度をとることだろう。

それを……良心的なインテリ、安定した生活者、現在と未来の自分を不安なく眺められるあなたに(留保なしに陽溜まりに座ることができる者は幸いであるフェルナンド・ペソア)は、わかるだろうか。おそらくわからないであろう。わかろうとする態度をとることにすら嫌悪感を感じるであろう。そこに断絶があって、おれの絶望はやむことがない。