『博物誌』ジュール・ルナール/大久保洋訳

ASIN:4061331418
 『にんじん』(id:goldhead:20050804#p2)にえらくやられてしまった俺なので、これを古本屋で見つけたときも迷わず買った。
 『博物誌』とは大仰な名前だけれど、いろいろの生き物の姿を捉えたエッセイ集であったり、あるいは詩のように、ときに言葉遊びの一文で言い切ったり(ビアス悪魔の辞典』……とはちと違うか)の85編。
 自然讃歌、とか、ナチュラルな田園生活、というのはちょっと違うな。巻末解説にも書かれていたけれど、何と言うか、もっと生臭い、血腥い。そのあたりの感覚、『にんじん』にもあった、ともすれば残酷さ。時代と文化の隔たりのようなものをけっこう感じる。花鳥風月を優雅に謳いあげたふうではない。もっと地に足着いた、リアルな、土の生活。
 だからこそか、「野兎」、「鷓鴣たち」、そして「さかな」などで見せる、猟や釣りに対するためらいに強く共感を覚える(猟などしたこともないのに)。次に引用するのは、「さかな」で、ヴェルネさんという釣り人が、だぼはぜの苦しんで死ぬさまに気付いてしまった後の台詞。

……ある日のこと、猟に出て、私の罪の一つを犯したあげく、私は心にたずねた。いったいどんな権利があってお前はそんなことをするのか、と。答はいわずと知れていた。鷓鴣の翼をもいだり、野兎の足を切るのが胸糞がわるいのはすぐにわかる。夜になるともう殺生はやめだ、と鉄砲を壁にかけてしまった。それほどの血を見ないですむ釣りがたったいま、いまわしく思われてきた」

 俺は趣味としてのそういったものの感覚がいまいちわからないから。こうなると、「木の一族」で植物に感情移入し「猟じまい」で終わるという構図をそう読みたくなりもするが、まあそういうふうに簡単に割り切れるものでもないのだろう。「さかな」のヴェルネさんが折った釣り竿を持って言う最後の台詞。

「要するに、おとなしくなるということか、生きる楽しみなどなくせということか」