一つの道はすべての道か

 ネット上には掲載されていないが、神奈川新聞で熊田千佳慕さんが半生記を連載されている。今朝掲載分に、熊田さんのことをあるお坊さんが「在家にありながら悟った妙好人」と記し、それについて「面はゆい思いをしました」と書かれていた(面はゆいって上品で素敵な言葉だ)。
 妙好人といえば、俺は最近その名も『妙好人』(ISBN:9784831885067)という本を読んだ。この本の感想については、いずれ風邪が治ったら書こう。で、この本の指す、というか、一般的な妙好人というと、完全に仏の道、とくに浄土真宗の方の妙好人であって、おそらくそういう意味で熊田さんはそうではない。が、熊田さんをして、妙好人というのは間違っていないようにも思える。
 もちろん、人柄のこともあろう。しかし、それとともに、彼のように一つの事柄を極めたような人に悟りを見る。どうも俺はそういう発想はすんなり飲み込める。それこそ、寺に入って修行せずとも、仏のこともなんも知らんでも、その一事を極めることによって、トータルに悟れる。武道だろうとスポーツだろうといいが、なんとなく想像つきません? なんかそういうのってあると思う。
 ついでにいえば、そいつは日本的、東洋的発想に限らないんじゃないのか。というのは、ロード・ダンセイニの『魔法使いの弟子』(id:goldhead:20050216#p3)を読んで思ったこと。その作品の中の、ほとんど全能かという魔法使いは、主人公の祖父に教えられたいのしし狩りの知識に「すべての賢者が見出した幸福への明白な道」を見出したのである。この「すべての賢者が見出した幸福への明白な道」ってのが、悟りそのものではないのかと思うのだが、如何。ダンセイニ卿はキリスト教の外でなかったかと思うが、東洋思想との関わりは知らないが。