『いたずらの問題』フィリップ・K・ディック

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※ネタバレがあるかもしれません。
 『アルファ系衛星〜』『フロリクス8〜』についで、またディック。今年の夏はディック月間。
 『いたずらの問題』はディック初期の長編。そして、荒削りながら魅力的。その後に展開していく部分の萌芽が見られる。ディストピア、ユーモア、キッチュでもあるSF小物、追い詰められた男、つくりものの世界のこと。とくにつくりもののところ、それに気づくところに関しては「お、お、お」と思ったもの(の、まだ控えめなところで終わるんだけれど)。そして、主人公の取った行動。これは最終作『ティモシー・アーチャーの転生』において描かれた‘菩薩’の姿、廻向の行い、あえて地獄と煩悩の中にいる、その選択のように思われる。破れかぶれになりながらも、人間の意志がある。また、20章のウェールズ氏の嘆きは、ディックの嘆きのようにも思える。それでも、なお。
 また、驚くべきは先見性、あるいはいつの世でも変わらぬ人間を見抜く目。舞台は、道徳再生運動(通称モレク)が支配する相互監視の社会。そこで重要な役割を果たすのがテレメディア、すなわちテレビ。主人公はそのメディアに作品(パケット)を納める調査代理店、すなわち広告代理店の青年社長。彼が、お上のテレメディア側へ取り立てられるところが一つの大筋なのだが、このように、マスメディアが社会の中でどのような役割を果たすか、というところを見抜いている。1956年のアメリカのテレビ事情はわからないが、この視点はかなり現代的じゃあなかろうか。もっとも、テレビに関する現代的は、何年前から現代かわからんが。
 それはともかく、さらにはこの訳書と解説(宮部みゆき。ディックのファンだったとは)がなされた1990年代初頭にも見られなかった、きわめて現代的な問題も見抜いているように読めた。
 それは、この道徳社会を成り立たせる一つのシステム、ブロック集会。非道徳的行為に及んだ人間が、居住ブロックの住人達によって裁かれる。議題になるのは、配偶者以外とのセックスだとか、妻以外の女性とのキスだとか、酔っぱらって暴れたとか、その程度のことがら。
 この集会のシステムがおもしろい。被告人と評議会(裁判官の役目をする)以外は、同一の声だけの存在、匿名の存在なのだ。声の主は、その会場に居るブロックの住人たち。しかし、全て同じ声に変換されて会場に響く。ある声は壇上の者を弾劾し、ある者は擁護する。発言者はほとんど誰だかわからない。
 また、こういった裁判の材料を集めるのは、ジュブナイルと呼ばれる小型の虫型機械。これが、人間社会の隅々まで監視し、データを収集しているのだ。ささいな暴言や素行も、ジュブナイルがたまたま監視していたら、衆目にさらされることになる。
 さあどうだろう。われわれの中にジュブナイルはいるか。正義感と好奇心、悪意がない交ぜになった吊し上げはないか。ネットイナゴってどんな虫?
 不法の者、非道徳的な者に法や道徳を説くことはできる。では、行き過ぎた法や道徳に何を説けるのか。イエスは「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げろ」と言ったが、「あなたがた」と呼びかけられる者がおらずに、言葉だけではお手上げだ。ではどうする?

「もし正体を明かしたら、きさまを息ができなくなるまでぶん殴ってやる。こういう顔のない告発にはもううんざりだ。屈折したサディスティックな心が、こういう集会を利用して、薄汚い細部をほじくりまわし、罪もない行為を手垢で汚して、どんなあたりまえの人間関係にも汚穢と悪とを読みとるんだ。……」

 と、手をあげようと意気込んだところでも相手は見えない。それならばこそ、声の主が勝手に考え、自らを疑うような何かを仕掛けるか。それがいたずらの問題、ディックのやろうとしたこと、ヴォネガットのやろうとしたこと。あるいは道徳と非道徳が逆転する場合もあろうか。果たして如何。