NHKスペシャル「愛美さんが教室に戻れる日」を見たこと

 テレビの音声だけ消して本を読んでいたら、画面の方にただならぬ雰囲気を感じたので切り替えた。ドキュメンタリのただならぬ雰囲気、たまにフジテレビのNONFIX(最近ぜんぜん見てないな)で接することのできるそれ。
 扱っているテーマはいじめ、不登校。途中からの視聴だったが、被写体の中学生は男女一人ずつ。女の子の方はオタクの子であって、なんらかの暴力的トラブルに見舞われたらしい。男の子の方は、部活のトラブルがきっかけというが、主な問題は家庭の貧困のように見えた。
 俺は紙一重だったな、と思う。小学生のころなど、中学受験の前後、冬休みより長い間、学校に行かなかった。その頃は体がけっこう弱かったというのもあって、受験のために大事を取るという面もあったが、それは俺の中で表向きであって、もう学校というものにうんざりしていた。教師にも同級生にもうんざりしていた。くだらないクラス内のグループ、ヒエラルキー、人間関係、どうしてこんなに馬鹿馬鹿しいものと関わらなきゃいけないのか、拘らなきゃいけないのか、すべてが面倒だった。正直に言えば、なんでこんなに頭の悪い連中のレベルに合わせて振る舞わなきゃいけないのか、耐え難いものがあった。塾で会う他の小学校の奴らの方がずっと話が合う、まともだ。塾の講師の方がずっとプロフェッショナルだ、尊敬できる。だから、中学受験は逃げ場だった。昨日のドキュメンタリの少年の高校受験ほど切実ではないかもしれないが、ここで負けたらあと三年地獄、そういう思いが強かった。結果として、なんとか滑り止めの滑り止めに引っかかった。あのときの安堵は忘れられない。
 合わせようと思えば合わせられたかもしれない。人間関係というものについて最初からまったく駄目、友だちが一人もできない、というわけではなく、人並みの友人関係を築き、グループを築き、それなりのポジションを得ることもできた。それなりに、人を楽しませることもできたのではないかとも思う。ただ、それがいつしか、苦痛で、面倒になっていって、切られる前に切るという感じで、バチーンと人間関係を遮断してしまう。きっかけは些細なことであっても、その後にずるずると続いていくことを考えると、もう全部あらかた放り出してしまう。
 と、言うわけで、中高一貫六年間、最初に築いた友情関係は二年くらいで打ち切り、かなり好きだった子も感情の行き違いで疎遠になり、相当に深く付き合ったグループとも最後には会話もなくなり、卒業とともにまた完全に人間関係はリセットされた。大学は大学で、知的レベル、ポジティヴさ、アグレッシヴさ、あるいは生活レベルで身分不相応のところに入ってしまったために、人間関係構築あたりから躓き、結局ドロッパウトした。
 そういわけで、そのまま全く同世代との人間関係を欠いたまま、ひきこもり、ニートを経て多少の社会復帰、借金による家族解散などを経て、なんとかミニマムな身の回りの繭に守られて、社会の下流で泥亀のように息をしているわけだけれど。ただもう、学校のような人間関係、友人関係というものから解放されて、これほどの自由はないと思う。息ができる、という感じがする。一緒に遊んでくれる女の人一人いればそれでいいです。いなくなったら、それはそれでいいかもしれない(ちなみに、自分の両親にも自分と似たところがある。おおいに)。
 もちろん、以上は俺からの見方でしかなく、実際に見下されていたのは俺の方だろうし、嫌われ者ののいろいろな要件を備えていたとしか言いようがない。そしてまた、それは社会の人間の値段から言っても成立し、この俺の頭の悪さ、弱さは、俺の稼ぎとか、そういったものでも証明されているだろう。そして、一時的に成立していた人間関係も、俺が思うようなものではないかもしれない。「無視された方の気持ちがわからないのか」と面と向かって言われたこともあるが、何とも応えようがなかった。とにかく関係が嫌になったのだ。嫌なのだ。
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 というか、俺が何を言いたかったかといえば、「教室に戻れる日」なんてこなくていいんじゃね? ってことであって、なんで「学校か死か」くらいの勢いなのかわからない。不登校対策教師にしてみればそれが仕事だが、あれは双方に不幸だ。言っちゃ悪いが無駄な力を使っているように見える。どっか別のところに行けばいいじゃん。家でポケーッとしってたらどんなありさまになるかわからないけれど、そうしていられなくなるとなったらそうしていられないのだし、まあなんとかなるんじゃないかと、無責任なこと。でも、命捨てるほどの学校ありや? というか、このことについては、前に書いていたっけ。

 ……しかし、なるようになるといっても、やはり網のようなものが何層か用意されていて、かなり厳しいところに落ちるよりは、どこかでひっかかった方がよいに決まっていて、たとえばどこに網があるのか、網の方にいけるのか、そういったところには運も大きいけれど、やはり環境というものもあるだろう。たとえば親が網に思い至らず、教室あるいは死に向かって子供を押し出してしまうこともあるだろうし、網のことをまったく知らない、関心のない親だって居るだろう、余裕のない親だって居るだろう(母子家庭に厳しい視線を送る意見をたまに目にするけど、支援とかむっちゃ削られてるよ、不況以来。ずるして楽してる人間が一人もいないとは言わないが、おおよそ二重苦を与えてるだけで、すごく不毛だ)。あるいは、網自体あるのかどうかわからない。この網はやはり社会の方で、たとえば義務教育を提供するように提供されるべきものであるとは思うが、そのメリットとデメリット、すなわちコストが釣り合わないとすれば、教室主義が続くことだろう。
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 というか、俺が本当に今回何を書きたかったかといえば、こういうドキュメンタリ撮るにあたって、ああいったシリアスで、なまなましく、被写体にとってはかなり恥をさらす、それも全国に晒すようなカメラがあるっていうのは、いったいどういうことなんだろうか、と。一番下世話な心配で言えば、あんなのを見たら、余計いじめの対象になるんじゃないのか、というか、ここまで顔と名前を晒して、それに耐えられるって、なんかもう、学校行くよりすげえことじゃないのか? とか。あと、カメラあって、それが行動やなにかに影響しないのか、とか。その関係性というか、たとえばNスペの取材者ともなれば、石ころ帽子被ったように存在感消せるのかどうか、とか。取材者と被取材者の関係。トルーマン・カポーティの『冷血』(映画『カポーティ』)じゃあないけれど。たとえば、高校合格をスタッフに知らせる男の子のようすは、カメラに対して客観的ではなかったな、とか。まあ、とにかく、こういった取材を彼らや彼らの親が引き受ける、その時点から、なにからなにまで、ちょっと想像がつかない。笑いあり涙ありの大家族ものドキュメンタリ/バラエティなどなら、金銭的な見返り的なものもあるのかもしれないが(これも下卑た想像だけど)……。その疑問は、いずれ。