「因」しかどうにかできないからこそ

 その延長線上で、今日本の社会を覆っている、というより若者の生活を覆っている派遣社員契約社員という人間をモノ化したピンはね使い捨てシステムの中からなんらかの犯罪が生じるのではないかと考えたことがあったが、今回の秋葉原の事件はまさにそれを絵に描いたような出来事である。
 そういうことで加藤容疑者の犯した罪はエクスキューズ出来るものでは到底ないが、こういう若者の使い捨てシステムを容認して来た、というより作り上げた現政権の罪は重い。
 無残な形で殺された7人の殺害に演繹的に現政権が加担していることになるからである。

http://www.fujiwarashinya.com/talk/index.php?mode=cal_view&no=20080611

 この犯人のようなモンスターは、昔から姿を変えて一定の頻度で出現する。このテの事件があるとやれゲームがどうとか、ネットがどうとか、格差社会がどうとかいう分析で世間は落とし所を見つけた気になっているが、時代の背景が今はたまたまそうなっているだけで、そんなものを分析したところで何の意味もないと思う。ゲームやネットがない時代にだって、モンスターはいたのだから。
またこの犯人個人の人生における、さまざまな要素が複雑に関係しあって出来上がった人格なのだから、環境だけを取り上げたり、この犯人とは一切関係のない過去の犯罪例からパターン化して、何かのせいにすることにも違和感を感じる。
こうした犯罪が起きるたびに思うのは、更正や反省や酌量を論じる余地のない所業がこの世にはあるのだということ。同種のモンスターによって引き起こされた光市の事件の判決、先日の江東区の女性殺人事件などを見るにつけ、思っていたことである。

http://wave.ap.teacup.com/mizukami/483.html

 この秋葉原無差別殺傷事件のようなできごとについてはいろいろな切り口があって、たとえば上の二つのような見方がある。上は藤原新也氏、下は水上学氏のもので、はてなアンテナ内で見つけたので引用させていただいた。さあ、どうだろうか。……俺はどちらの意見にも諸手を挙げて賛成はできない。考えてみて、そう思った。
 たしかに、どんな時代にも、どんな幸福な国家にも、信じがたい兇行を犯すモンスター的な人間は生まれる。そういう類の人間は生まれる。それはおそらく確かなことだろう。しかし、だからといって一人の人間が、生まれた瞬間から宿命づけられたモンスターでありえようか。それは疑問だ。生まれ落ちた環境があり、家族があり、またその家族を取り巻く環境があり、その時代とは無縁でいられない。血統だけで馬が走るわけではない。もちろん、その複雑に絡み合った糸をすべて解きほぐすのは無理だ。だからといって、目に見える問題点、この場合でいえば、加藤を取り巻く労働環境の悲惨さを、事件と無関係と断ずるわけにはいかないだろう。ならば、その環境を改良していくべきなのだ(……と、あっさり無関係と断ぜないなどと書いてしまったが、ここの見きわめを誤るとゲームやアニメが吊される。さらに断っておくと、俺は無条件でゲームやアニメが無害だと決めつけてもいない)。
 ここではっきりさせておくべきなのは、社会の改良≠犯人の情状酌量ではないかということだ。まあ、もちろん裁判の中で情状酌量なるものは存在するわけで、環境の悪さを主張することがそのまま容疑者の弁護になりかねないという面はある。しかし、やはりそこは切り離して考えるべきじゃあなかろうか。
 たしかに救いがたい人間の行いはある。たとえ人に救われる要素があろうとも救うべきでない大罪もあるだろう(死刑の是非については留保)。彼の罪は彼の罪であって、彼が償うべきだ。彼が引き受けるべきだ。ゆえに、「現政権の罪は重い」や、「7人の殺害に演繹的に現政権が加担」などという物言いには疑問を覚える。政治を選択してきたのは建前上国民であるし、犯人にさらに近い人々の罪をも問わねばならない。家族、学校、職場、買い物先……、もちろん、それぞれに罪を問える要素はあるかもしれないが、それは彼ら自身が自ら気づき、背負うなら背負うべきものではないだろうか。あまりに罪を問う矛先を拡散させては、罪が霧消してしまう(社会全体、人類全体が背負うべき十字架がある、というような見方もあるかもしれないが)。やっぱり死刑台には彼一人が上るべきだ。たしかに、ある原因があって、じゃあその原因を作った原因は何かと問えば、誰かが出てくるかもしれないが、そこまで第三者が罪の重さを云々すべきかどうかというと、演繹的に正しいかどうかまではわからないが、少し違うような気がするのだ。
 しかし、彼と縁のある社会に因があるのであれば、因はやがて新たな縁と結びついて悲しい果を生むやもしれないわけで、因の方に目を向けることは必要だ。裁きの目ではなく、改良の対象として見られるものは、そう見るべきではないか。我々の社会が完全にモンスターの誕生を排すること無理かもしれないが(やがて可能になる日も来るかも知れないが、それはディストピアとしてSFに描かれる社会だろう)、モンスターの誕生を減らすこと、モンスターの兇行の威力を低めること、それはやるべきことだ。そして、それは徒労ではないと、俺は思う。
 こんな事件のあとだけれども、やはりこの日本は安全な国に分類されるといってもいいだろう。飢餓や貧困が社会を覆い、悲惨な紛争や犯罪が恒常化しているほど酷くはない。この現状も、先人たちがちょっとずつマシな社会にしようと積み重ねていったものであって、「何かのせい」を潰していったことの結果であると思う。社会は改良できる。たとえば、今回の事件の凶器が自動小銃であったら、もっと多くの人が死んでいたかもしれない。それもまた、原因の一つが潰されていた結果ではなかろうか(などというと、ナイフ規制に賛成しなきゃいけなくなるようで、ちょっと保留したいところもあるが……)。
 というわけで、彼は彼の罪を全て彼自身で背負うべきであって、そこに異論の余地はない。社会には社会の不備があるのだから、それはこの事件を機に改良する必要があるのかもしれない。しかし、それは彼の免罪符にならない。派遣労働に関する政策がおかしいのであれば、その件で政治は責められるべきだが、それが秋葉原で人を殺したとまで言うのは疑問だ。もし彼以外にこの件で罪を問われるものがあるならば、自ら罪に問われるべしと考えた彼自身によって問われるべきである。でも、PL法や、運転手に酒を飲ませた居酒屋のケースのように、間接的であっても法的に罪を問われる場合もあるな。あと、民事訴訟とかもありうる。遺族の怒りと悲しみの矛先が犯人にだけ向くかどうかはわからない。……あれ、なんだかよくわかんなくなってきたな。スパッと切り離して考えようと思っていたものが、実は不可分であったり、繋げて考えようと思っていたことが繋がらなくなってきたりしてきた。きりがないので、ここで強引に終わる。