文字は人を殺すのか/秋葉原通り魔事件の犯人が食ったもの、犯人を食ったもの

goldhead2008-06-12

 文字の成立によってほんとうの意味で、表出は、意識の表出と表現とに分離する。あるいは、表出過程が、表出と表現との二重の過程をもつといってもよい。言語は意識の表出であるが、言語表現が意識に還元できない要素は、文字によってはじめて完全な意味でうまれるのである。文字にかかれることによって言語表出は、対象化された自己像が、自己の内ばかりでなく外に自己と対話するという二重の要素が可能になる。(吉本隆明『言語にとって美とは何か』)

 秋葉原通り魔事件の惨事から数日、まだ報道の熱はおさまらない。繰り返し流されるいろいろな映像。その中の一つに、加藤智大容疑者が書き込んだとされる掲示板の内容がある。暗いトーンの画面に、暗いトーンのナレーション。そういう演出。おい、それはテロルの首謀者、教祖さまの声明を大宣伝してるようなもんじゃねえのか?
 この加藤のものとされる書き込みには、説得力がある。殺人行為は別として、この内容に共感できる人間は決して少なくないはずだ。かくいう俺だって、スポーツカーがエンジン唸らせて勢いよく交差点から飛び出していくさまを見れば、心の中で「事故れ!」とつぶやく人間。……いや、まどろっこしい言い方はなしだ。宅間守だ。数年前の、実家も何も失って路頭に迷いかけたときの、宅間守の言葉は強烈だった。乾いた砂を詰め込んだ壷に水を流し込むように染み渡った。あらゆる偉大な小説家の言葉よりも、詩人の言葉より染み渡った。ワイドショーに見入った、見入った。
 たぶん、今はましになった、そこまでではなくなった(いちいち探しはしないが、この日記をはじめたころは、金持ち憎悪の内容が多かったと思う。とかいいながら、タクシーを憎悪してる俺一匹発見)。かといって、宅間の言葉に感応した自分が元から持っている世間憎悪、嫉妬心、そういったものまで消し去ったわけでもない。そこに上塗りされた宅間の言葉が消えたわけではない。それだけ言葉は強いものだ。
 同じように、加藤容疑者の言葉も強い。殺人事件をするような奴が書いたから文に力を感じるのか、ああいう文を書ける人間だから殺人まで起こすのか。いや、内容的には『闇金ウシジマくん』で再現されているような、普通の駄目人間ブログと大差ないかもしれない。しかし、一つ言えるのは、加藤が自らの思いを言葉に、文字にあらわすことによって、より彼が彼の吐き出したかった彼になっていったであろうということだ。自分で形にした言葉は、まずその当人が食う。食って自分の構成物を、排泄物を取り込んで、より自分になる。
 その自分は、本当の自分だろうか。より自分らしくなっていくのだろうか。俺は、違うと思う。それは本来の自分ではない、俺は、そう思う。それはかりそめの自分。自分が自分と思いたい自分、自分が都合良く思える自分、型にはめて楽になれる自分、それら自分が作った自分にすぎない。では、「本来の自分」なるものはあるのか、自分探しをすれば見つかるのか。それは見つからないような気がする。見つけるとすれば、自我=無我であるところであって、さまざまに色をなす我々が空であって、空はさまざまに色なす我らのことであることへの気づきであって、それが悟りというものではないかと想像するが、しょせんわかりはしない。盤珪禅師の説く不生の仏心を「これだ」と思う自我の我を滅せぬかぎり、言葉にしようとしているかぎり、それは得られぬ。
 閑話休題加藤は携帯への書き込みに没頭し、もう一人の加藤を作ってしまった。加藤は加藤との共食いによって、モンスターになってしまった。そういう一面があるといえる。では、ブログや掲示板に自分の思いを、日常を言葉に、文字にして記録していくことを禁ずべきか? 子供に危ないからやめましょうというべきか。それはナイフ規制より馬鹿馬鹿しい。せめて、言葉の、文字の、文章の怖さを教える、そのくらいのことはするべきだ。作文の授業で「自分の思ったままをすなおに書きましょう」という危なさ。加藤は思うがままに書いて、自我もどきに食われて死んだ、死ぬどころか人まで殺した。言葉で人は生きるし、人は死ぬ。上昇への階段かと思えば、地獄への穴も開いている。その上で、みんな日記を書け、ブログを書け、掲示板に書き込みをしろ。文字に文字を重ね、文字に文字をぶつけるがいい。人間の性によって、人間の罪をふせいでみせるがいい、ふさいでみせるがいい。