石川九楊先生による日本語論である。なぜこの本を手に取ったか。無論、石川九楊先生の「書」を見て、やっぱりすげえなこの人は、と思ったところによる。
ともかく、石川先生の言いたいところはここにある(と、おれが思っている)のが次の点である。
文字を思い浮かべることによってはじめて理解に至る日本語は、文字中心の言語である。したがって、日本語は声ではなく「文字を話し」「文字を聞く」。
というわけであって、次のようなディスりにつながる。
言葉は言(はなしことば)と文(かきことば)からなる統合体であり、言法と文法とは、別のもとして峻別することが必要であるにもかかわらず、声中心言語の西欧やその影響下の言語学者たちはこの言法と文法を曖昧にしたまま、言法や文法を語っている。
そんでもってこうおっしゃる。
アルファベット言語圏においては、音声中心の言語を形成する。もちろん100%ではありません。50.1%、音声を中心にすると考えてください。これに対して漢字言語圏においては、50.1%、意味を中心とした言語を形成すると考えればいいでしょう。
ふむ。
それでもって、おれには筆触であるとか、縦書きと横書きの天と地、重力の問題などはわからぬが、上のようなことに「なるほど」と思ってしまうのである。東アジアでは始皇帝の時代でキリスト教の神やユダヤ教の神、イスラム教のような神は消滅してる、と言われても「そうなの?」という感じなのだが、「文字を話し、文字を聞く」、これにはなにか納得できることがある。ひらがなは「お」「す」「ま」のように上にアンテナを立て回転しながらつながっていく、カタカナは「ノ」「メ」「ク」「タ」のように右上から左下へ楔を打ち込むようだと言われれればそうかと思ってしまう。日本は白村江の戦いの「敗戦」によって生まれたと言われれば、松岡正剛もそんなことを言ってたな、とか思ってしまう。
まあ、いずれにせよ、『二重言語国家・日本』を復習した、という気になった。
とは言え『日本語とはどういう言語か』の方が新しく、よくわからぬがボブ・サップの名前なども出てくるので、ひとつ読んでみてはどうだろうか。そしておれは三浦つとむの『日本語はどういう言語か』を読むべきだろうか。
以上。