- 作者: 神林長平
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2011/06/10
- メディア: 文庫
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万能著述支援用マシン“ワーカム”に『言語空間が揺らぐような』文章の支援を拒否された小説家・解良翔。友人の古屋は解良の文章の危険性を指摘する。その文章は,通常の言語空間で理解しようとすると,世界が崩壊していく異次元を内包しているのだ。ニューロネットワークが全世界を繋ぐ今,崩壊は拡大されていく…第16回日本SF大賞受賞作品。
あー、あー、あー、いー、うー、えー、おー、かー、きー、こー、えー、まー、すー、か? おれは台風とは関係なく三連休のほとんどを断続的な睡眠とアニメ視聴、そして読書に費やした。録りためたアニメはほとんど見尽くした。本の方は6冊ほど併読した。併読したのは以下である。神林長平『いま集合的無意識を、 』、神林長平『言壺』、車谷長吉『業柱抱き』、車谷長吉『鹽壺の匙』、長田弘『一人称で語る権利』、伊藤計劃『ハーモニー』。とくに言葉についての言葉による話が多い。読んでいて妙な輪ができてくるような気がした。
さしあたって、『言壺』。おれは以前こんな日記を書いた。言葉の入力支援についてだ。
あ、これで『言壺』の感想はいいんじゃねえの?
なんというのだろうか、ケータイやスマートフォンの予測変換などは顕著だが、彼らのご提案からのチョイスでメールを打ってしまうことがあるだろう。かなりの部分、表現を、思考を、アウトソーシングしている。これより目立たないが、漢字への変換というのも、同じことではないか。極端な例でいえば、漢字撤廃論が存在するように、漢字というもの自体もたぶん多分に思想的なのだ。
私がときに漢語すら開いてしまうのは、愛すべきATOKやGoogle日本語入力へのささやかな抵抗である。それすら、彼らによって動機づけられているわけだが、まったく悪くない。
まったく悪くない。いや、良いとか悪いとかではない、のではないかとか。そもそも人間の思考や表現というものが、アウトプットするところのメディア? デバイス? そこに依存せざるを得ないのではないか。喉とか口のあたりで音を出す、石に刻みつける、毛筆で書く、鉛筆で書く、タイプライターに打ち込む、それぞれで、俺の言葉が、考えが、まったく同じだという確証が持てない。
というか、もっとそもそもの、頭の中のこと。そこでとりとめなく吐き出される、日本語が、どれだけ、俺の心臓の動悸、腹の違和感、頭に血の上る感じ、それらを、表しているというのか。まず、言葉とかいうものに、委ねてしまっている、自分でないなにかに基づかせている、そういうところがある、のではないかという、ような。そもそも、言葉は、IMEみたいなものではないのか、というような。
このあたりの感覚は車谷長吉が虚実皮膜のあいだに「ことば」がある、といったものに近いやもしれない。いまおれは長い間つかったATOKを捨ててGoogle日本語入力を使用しているが、支援能力への依存は高まっているように感じる。Google日本語、ワーカムに近い仕組みかどうか。まだ、リラダンだったかダールだったか、ピアノを弾くように小説が吐出される機械もできていないのはたしかだ。
言葉をどこまで機械に委ねるか。あるいは、その機械がスタンド・アローンではなく広大なネットワークを根拠とするものであった場合どうなるか。それが構築された世界、構築されたのちに破壊された世界。フムン、魅力的な話になるに違いない。ぼくらは都市を愛していたろうか。
それよりも、だ。それよりも、か? わからないが、「まずは」と打った途端に三種類の次に続く言葉を候補を用意してくれるGoogle日本語入力とおれの話をするべきかもしれない。おれは上に書いたように、もともとおれの言葉というものを怪しいものと思っているので、そこにほかの物の怪たる入力支援が加わったところでたいして変わらぬというような気もしている。ただし、そのような状態に対してどれだけ自覚的でありうるかが、つねに問われている、そのことを忘れちゃいけない。だれも読まぬこのような日記を書くだけであっても、だ。虚と実の間に楔を打ち込む。そうしたい。そうあるべきだ。そうしなくてはならない。
なぜか? なぜだろうか。できっこないのに。さて。さて、そうでもしなければ、やはりおれがおれの動機が納得しない。あるいは、あきらめがつかない。いや、おれが言葉について語るとき語ることは、どうしても上滑りしていく。どこに滑り落ちていくのか知らない。まったく、知らない。気の利いた〆の言葉でも支援の方で考えてくれればいいが、今はまだそこまで言って委員会(←支援頼みの終わり方)。
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