『エウロペアナ』を読む

エウロペアナ: 二〇世紀史概説 (エクス・リブリス)

エウロペアナ: 二〇世紀史概説 (エクス・リブリス)

一九一七年、あるイタリアの兵士は姉に宛てた手紙のなかで、ぼくのなかにある善良なものが少しずつなくなりつつあるような気がする。日を追うごとに、ぼくは前向き(ポジティブ)になっていく、と綴っている。

 本書の背表紙には「虚/実、歴史/物語の境界に揺さぶりをかける」とある。本書にはこれでもかというくらいいろいろのエピソードや思想が紹介されている。そして、そのどれにも名前がない。「誰が」という固有名詞がない。そこに一種の痛快さがあるのはなぜなんだろう? おれにはわからない。

歴史家によれば、西欧社会は、記憶の連続体として歴史を理解する伝統から離れ、記憶は歴史の断絶に投影しているものと捉えるようになったという。

他方、実際のところ、記憶とは、ある出来事の保存と排除の相互作用であり、つねに選択的なものであり、そうでないとしたら、記憶というよりも精神疾患なのだ、と考える人びともいた。

 「エウロペアナ」である。日本人はヨーロッパそしてアメリカの、白人たちの歴史をどういう距離をもって眺めるべきなのだろうか。日本は先進国のような気がしている。しかし、二十世紀ではどういう存在だったのだろう。本書には原爆の被害者としてわずかに出てくるばかりである。日本人には日本人の「ジャポニカーナ」が必要なのかもしれない。記憶とは、歴史とはなんだろうか。学習帳。
 どこが「虚」かという話もある。おれにはどこが「虚」かわからない。第一次世界大戦の死者を並べた距離を実際に人数と身長から弾きだしてみて検算してみたりしない。せいぜい、こんなところが気になるくらいだ。

 一九四四年から四五年にかけて、五〇万人もの女性がドイツ軍に入隊した。ドイツ兵が後退する経路を確保するために地雷除去の特殊部隊で勤務する者もいれば、ドイツの都市を爆撃する敵軍の戦闘機を撃墜する者もいた。

 ……いま気がついたが、「戦闘機で」という括りがなかった。ハンナ・ライチュは実戦には出なかったんじゃないかとか、女性パイロットがいれば有名じゃないかとか思ったが、地対空でなにかをぶっ放していた女性もいたかもしれない。そこまでおれはドイツ軍に詳しくはない。
 おれはそこまで歴史に詳しくはない。毒ガスについて、ジェノサイドについてユダヤ人がとる態度について、女性の社会進出について。おれはまるで歴史に詳しくはない。歴史に対して取りうる態度について詳しくはない。詳しくはないことについて語らないほうがマシかもしれない。よくわからないことが多い。
 とはいえ、本書はよくわかるように書かれている。スラスラと飛び飛びの記述を追っていけば、どんどんページは消化されていく。とりとめもないといえばそうかもしれない。しかし、おれはそんな歴史のエピソードの連続を知っている。カート・ヴォネガットがそれだ。ヴォネガットのそればかり集めたのが本書だ、とも言えるような気がする。たいして長い本じゃない。読んでみて損するわけじゃあない。身につくものがあったのかどうか、さて、おれが昨日より今日かしこくなったのかどうかわかったものじゃない。