リチャード・ブローティガン『ハンバーガー殺人事件』を読む

 しばらくすると忘れてしまう。たとえば、おれが今年ブローティガンを読んでいたことなど。ふと小説が読みたくなり、ブローティガン最後の本作に手を出した。一連の「ジャンル小説に挑戦しました」シリーズのミステリないし探偵物……というわけではない。ハンバーガーものだろうか。そうとも言える。とはいえ、原題にハンバーガーの文字はない。「SO THE WIND WON'T BLOW IT ALL AWAY」とある。知らない単語はないが、正しく意味を取れる自信もない。こういうときはGoogle翻訳先生に訊け、ということで。

 訊かなければよかった……(名誉のために言っておくと、ピリオド打つとだいたい正しい意味になります)。
 と、そんな心配は必要なかった。このフレーズが章だか節だかの最後に繰り返し出てくるのだ。藤本和子でない翻訳者によればこうなる。

風が吹いても消えやしない
ちりは……アメリカのちりは

 そうなると、これは『アメリカの鱒釣り』が「アメリカの鱒釣り」の小説でしかなかったように、「風が吹いても消えやしない」の小説であり、「アメリカのちり」の小説であるとも言える。とはいえ、『鱒釣り』のような奔放さはない。「あのとき、ぼくはどうしてハンバーガーを買わず、銃弾を買ってしまったのだろう?」という痛恨の追憶についての話である。
 あれ、これって、あれじゃねえの、とおれは思った。

 カート・ヴォネガットの『デッドアイ・ディック』。『ハンバーガー殺人事件』と同時期に書かれている。それに同じく10本目の小説のようだ。おれは『ハンバーガー殺人事件』より9年ほど前に読んでいる。おれが9年前の本の内容を覚えているものか。それでもこうは言える。「デッドアイの方が面白いですよ」と。
 そう言っておれは悲しくなってしまう。ヴォネガットは長く生きた。ブローティガンは銃で自殺した。人生にご用心。そう、それなのに、ブローティガンは不遇なやつで、人生に居場所のないやつで、それなのに、『ハンバーガー』と『デッドアイ』なら『デッドアイ』かな、と思ってしまう。作者の人生だのなんだのは作品の評価に影響すべきかどうかなどしらん。しらんが、どうもそこにおれは居心地の悪さを感じてしまう。もちろん、おれはヴォネガットも大好きだ。でも、ブローティガンのフラジャイルさ、情けなさ、そして、なにかこう、もっともっとでかく爆発すべきだったであろう才能を惜しむ。そんなところがある。
 そしてアメリカ! おれは一生この日本から出ることもないだろうが、この『ハンバーガー』にはたぶんアメリカがある。家具を持ち込んで釣りをするやつ、ガキから餌のミミズを買うガソリンスタンドのじいさん、スクールカーストの頂点にいる少年、そうではない少年。そうだ、釣りなんだ。自然がある、ハゴロモガラスがいる。一方で、文明がある。銃がある。どこかに潜んでいる暴力。そして失われていくもの。

 この時代なら、誰でも自分で夢を見ることができた。ちょうど、どの家にも家庭料理があったように。けれど現在、アメリカ中の夢はマクドナルドやケンタッキーフライドチキンのようなフランチャイズで売られている。いや、その夢を買って帰ったあとでも自分のものになっているのだろうか。マクドナルドのハンバーガーには消化されるまでのノウハウまでプログラムされているのではなかろうか。

 最後にきて、唐突に挟まれるこの箇所。はじめはなにか浮いているように思えてならなかった。けれど、これは『ハンバーガー殺人事件』なのだ。ブローティガンが撃ったものはなんだったのだろう。追憶の中にあったもの、優雅で感傷的な……そして救いがたい……。うまく言えねえよ。うーん、ひょっとすると、『鱒釣り』、『西瓜糖』の次くらいにきてもいいのか。そんな気にもなってくる。まあ、だれかの作品を順序づけることになんの意味があるのかわからないが。まったく。でも、ブローティガンアメリカというもの、あるいはブローティガンに合わんかったアメリカというもの、少し思いを馳せないでもない。ただ、おれは一生この国を出る機会はないだろうし、アメリカ人と接することもないだろう。たぶん、そんなものなんだ。

"so the wind won't blow it all away...Dust...American...Dust"

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