世界の言葉たちについて

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帰り道、信号待ち。横に母と娘。母がおそらくは中国語で娘になにかまくしたてている。たくさん喋っている。おれには中国語がわからないが「今夜はハンバーグ」とだけ言っているわけではないだろう。怒っているように聞こえたので、ひょっとしたら「あなたはいつも宿題を後回しにして遊んでばかりいる……」などとお説教をしているのかもしれない。

 

たぶん、だいたい、同じ量の日本語で語られていたら、同じ程度の意味を伝えているのではないかと想像する。表意文字と表音文字では取るスペースの分量が違うが、かといって一千倍違うと言うこともない。話し言葉とて同じことだろう。

 

これはなにか大したことだ。いろいろな言語がある。いろいろな環境の中で、それぞれの文化とともにそれが生まれ、精密化してきた。われわれをとりまく環境、もの、ことは、それぞれにおおいに違う。なので、雨を表す語彙だとか、雪を表す語彙だとかの数が大違いだということもある。

 

とはいえ、なんとなく違う言葉の民が集まって、なんとか意思疎通しようとすると、ある民の言葉が三分間で、同じ内容のある民の言葉が三十時間だということもないだろう。なんとなく、通訳できるレベルにある。

 

これはたいしたものじゃないか。人類皆兄弟とは古い言葉だが、なんとかなる。たとえば、百より上の数について語彙を持たない民がいたとしても、新たに作るか、他の言語の語彙を借りることで表現できるようになる。

 

このあたり、どのあたりかわからないが、人間というものの言葉の根源に関する何かがあるのではないか。

 

おれは言語学について一切知らないし、チョムスキーという文字列も知らないのでなんとも言えないが、人間存在、文化、進化論、いろいろな面で初歩的に論じられてきたことではないかと、想像する。

 

とはいえ、おれの興味はここまでであって、言語学についてこれ以上踏み込むことはない。ただ、あの中国語らしき言語でまくしたてられていた女の子が、過剰に責められていないことを願うのみである。