世界の名著〈第42〉プルードン,バクーニン,クロポトキン (1967年)
- 作者: プルードン,バクーニン,クロポトキン,猪木 正道,勝田 吉太郎
- 出版社/メーカー: 中央公論社
- 発売日: 1967
- メディア: 単行本
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それで、今、まえがきにあたる、解説というか、概要というか、そういうのを読み終えたところ。そうだ、昔、うちにもこんな全集がいろいろあって、親父はよく言ったものだった。「全部読まなくていいから、前書きのまとめだけ読んでおけ」と。まあ、あれは正しかったのかどうか、ある意味正しいのかもしれないと思ったりして、なんというか、目から鱗というような、赤線引きまくりのもんだった。
で、プルードン、バクーニン、クロポトキンのそれぞれのざっくりとした人物像とか、そういうのはおいといて、ともかく最後の方に引用されていた、大杉栄の言葉に、俺はやられてしまった。
僕らは今の音頭取りだけが嫌いなのじゃない。今のその犬だけがいやなのじゃない。音頭取りそのもの、犬そのものがいやなんだ。そして、一切そんなものはなしに、みんなが勝手に躍って行きたいんだ。そしてみんなのその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ。
すごくいい。なんだか、わからんが、いや、俺はわかる、たぶん、これは、俺の、涙を流すほどに、恋いこがれるというか、憧れるというか、いや、なんかもっと、これだろ、これしかねえんだって、思うような、その何かを、ずばり言い当てられたような、そんなところがある。みんなが勝手に躍るんだよ、裸だったら何が悪い! すげえな、大杉栄。俺、日本に、こんなすげえいいのがあるなんて知らなかったよ。解説の人もこう言ってるよ。
アナーキズムの思想についてはほとんど知られていないで、アナーキストに対する国家権力の側からの弾圧とテロだけがむやみに有名であるというところに、いろいろの問題がひそんでいると思う。
なんかさ、それこそ、小学校の教科書とかで「小林多喜二のデスマスク」と一緒くたになって出てきて、ともかく、特高警察は恐ろしいです、という、日教組の先生の教えるだけのものであって(そりゃ恐ろしいが)、むしろ、甘粕正彦に興味を持ってしまうのが、普通の小学生ってもんじゃないだろうか(そうだろうか?)。
そこでよ、小学校の教科書にさ、上の文章が載ってたらどうよ?
僕らは今の音頭取りだけが嫌いなのじゃない。今のその犬だけがいやなのじゃない。音頭取りそのもの、犬そのものがいやなんだ。そして、一切そんなものはなしに、みんなが勝手に躍って行きたいんだ。そしてみんなのその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ。
すごくいいから、もう一回引用しました。もう、こうなったら、小学生もアナーキストになるかもしれない。政府が悪いとか、政治家が悪いとか、そういうことを言う人はたくさんいるよ。すごくいる。でも、なんつーか、「音頭取りそのもの」がいやなんだって、そういうこと言うやつは少ない。俺はそう思う。
ああ、ともかく、アナーキズムというのはいい。算数が苦手そうというのも性に合うし、なんかぶっこわさなきゃいけねえんだ、ってところもいいし、持つ者、持たざる者だけじゃねえんだ、
バクーニンは、ほとんど直観的に、「持つ者」と「持たざる者」との対立のみならず、「知る者」と「知らざる者」とのあいだの社会的分裂と対立をも摘発したのである。
ってさ、俺みたいなバカはどうすりゃいいんだよって、そういうところの、救われ無さというかさ、そこんところをさ、左翼、いやインテリ、なんか大雑把だけれども、ともかく、そこについては黙殺してんよなって、なんか俺はそう感じているしさ。
あとさ、つーかさ、俺はこの短い解説文の中にちょっとだけ引用されているほど苛烈なマルクス主義批判は、なんつーか、右翼の言葉の中にも見たことがない。
アナーキズムの主要著作におけるほど、社会主義思想の鋭利かつ根底的な批判は、他に見いだすことができない、と言っても過言ではないであろう。
って、解説も言ってるしさ。ネット右翼とか、これで理論武装したらいいと思う(別に俺、左翼嫌いでも右翼嫌いでもなしに、どっちもなんかしっくりこない、なんかわかんねーけど、なんか違うって、それで、何が違わないのかっていうと、今書いてるこれなんじゃねーかって思ったりしてるけど、まだ前書きだけなんで、ともかく知識がたりねーから、そこは勘弁してほしい)。
でもよ、なんつーかその、このアナーキズムの、たぶん、すげえ成り立たないところがあって、だからこそマルクス主義と帝国主義の国家万能主義の双子に挟撃されて、ほとんど死にかけてたんだろうけれども、その成り立たないところがいいんだ。算数っていうか、経済が成り立たないんだ。その上、なんかもう、お花畑通り越したくらいに、ほとんどSF的な未来人像を思い描いていたりさ。
あとは、無政府主義で、法も裁判も刑罰もいらねーってのがどういうことかっていうと、もっとすごい抑圧が出てくるってことも予見されるわけじゃん。
国家権力の、いわば可視的な暴政とは異なる意味での、社会の不可視的な暴政の可能性について透徹した洞察力を示したのは、バクーニンであった。彼は人間に対する国家の「公式の、したがって暴力的な権威」と、「非公式な、そして自然な社会的影響」とを区別した。
その後者がさ、国家権力に比べて「いっそう柔らかであり、より婉曲であり、また目立たないものではあるが、それだけにいっそう強力なのだ」って言っててさ、
社会的抑圧に対する人間の反逆が、国家に対する反逆よりもはるかに困難であり、ほとんど不可能に近い、ということであった。
なわけで、白旗なわけじゃん。あー、つまりは、もう、法も何にもねえとなると、そこに生まれる社会的統制というか、同調圧力っつーか、そういうものは、もう、不確定で曖昧なものになっちまう、これ、どうすんだよ、って。
この疑問は、アナーキストの社会哲学においても解きえない謎のまま残ってる。
って、そんな風に解説されてんじゃん。でも、それでいい。よくわかんねーけど、やっぱりそこは、未来人になるしかねーんだよ。そしてみんなのその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ。そうだ、それしかねーんだよ、すげえ、バカ、投げっぱなしジャーマン。でも、なんか俺は、ここまで、ああ、お前ら、いいこと言ってるなあって思ったこと、少ねえんだよ。よくわかんねーけど、仏教くらいしっくりくる。禅と通じてる、俺はそう思う。いや、俺はもう勝手に躍る、犬も、音頭取りも、ごめんだから!
人間生活の終末は、すべての人工組織から開放せられて、自らの組織の中に起居する時節でなくてはならぬ。つまりは、客観的制約からぬけ出て、主観的自然法爾の世界に入るときが、人間存在の終末である。それはいつ来るかわからぬ。来ても来なくてもよい。ひたすらその方面へ進むだけでたくさんだ。
「現代世界と禅の精神」鈴木大拙