ぼくらは100年前の革命にだって共感できるはずだ


 「明日は我が身」という言葉があって、たとえば健康な人が病人を見たり、金持ちが貧乏人を見て「自分とは違う」、「自分とは関係ない」と思ったりすることを戒めたりするものだと思う。明日は我が身、他人の身になって考えよう。悪くない。
 だが、我々はその悪くない発想をほんとうにわかっているのかというと、やはりわからないといえばわからない。かといって、我がその他者と同じ境遇に置かれる可能性がある、そうなったらどうしようかという類推ができなくもない、その程度のことだったりする。
 ただ、その程度の想像くらいはできるし、想像にすぎないながらもそういった心の働きがありうるということは認めておいて悪いことはないのだし、そういった類推があるからこそ人間という生きものが霊長などといって地球の上をわが物顔で歩いている根拠といっていいかもしれない。
 人間というものが生物学的におおよそいつ確立したのかよくしらないし、今なお変わり続けているものとは思うが、一応は我々が我々の知りうる範囲の文明や文化といったものをつくり始めてからは、おおよそ脳味噌のできも身体も大違いはないように思える。
 だから、我々はゲルツェンやオガリョフではないし、キング牧師でもないのだけれども、同じ人間というものとしての括りの中において、過去の彼らについて類推して、また彼らの発想や意見について思いをめぐらすこともできるに違いないのだと思う。
 おおよそ宇宙開闢のその原初になにがあったのかよく知らないが、その時から私は私の形をしてあったのではないのだろうし、サッコやヴァンセッティもそうだったわけではない。なにか石ころのようなものがあって、やがてたまたま分かれたにすぎないものであって、なにも同じではある。
 未来においてそれを見据えたのが生まれ変わり、輪廻転生といった発想であって、どこの宗派とか宗教ということはないしに、人間が脳味噌を使って想像するところにありえることであって、たれもかれも不二であって入れ換え可能であるという、また明日は我が身という考えと思う。
 このようなことをつらつら考えてみたのも、やはりPS3版『アイドルマスター2』をプレイしていて気づいたことであって、「なぜ竜宮小町のメンバーを自由にユニットに入れられないのか」、「男性ライバルは女性ライバルでよかったのではないか。可能性を生み出しただけでアウトなんだよ」、「いくらNTR病の俺でもこの枕営業風のは違う、ほんとうにやめてほしい」などの思いから、ふと、そういえば、このゲームに関して不買運動だのの騒動があったことを思い出したのである。

 私もネット上の騒動みたいなものはよく目にするような生活をしているので、この話題もたしかに見たはずであって、ただし心を動かされはしなかったのである。なにもゲームに興味がなかったのだから当然ではあった。だが、今となってはなるほどこれがどういうものであったのか、想像できるようになったといえる。
 想像できるというのは傲慢かもしれないが、想像できる可能性を持つということについて、やはり心の働きというものはあるのであって、今の私には『ゼノグラシア』は厳しいということにも気づかされたのである。まったくの関心も縁もないというところにも、明日の我が身はある。
 多少は関心があって、見て見ぬふりをしているというものもたくさんあって、人は折り合いをつけて生きていて、その上で、さらにまったく関心のない領域の関心のない問題、それに人々が心を砕いているのが滑稽に見えることにすら、やはり明日の我が身はある。
 そもそも私たちは原初において同一のものであって、その分岐であること、また、限られたものから成り立っていて同じようなことを繰り返すのだということ、その認識はあるべきである。今一度、坊輪具などを通じてそこに思いを巡らすことも必要なのだ。