この本を読んだ……のか? ということになる。一応、日本語で書かれている文字はすべて目を通した。だが、おれの目は確実に滑っていた。目が滑る、という表現が正しいのかどうかも知らぬが、実感としてそうなのである。これをもって、「黄金頭という人間はこのくらいの本が読めないのだな」というどうでもいい目安になるといってもいいだろう。
とはいえ、興味があるからこそ手にとったのである。おれの興味は進化心理学にあって、そこのお隣のような「進化倫理学」に入門してみてもいいんじゃあないか、という心づもりである。
実際、本書の目的の一つは、道徳的な品性(moral decency)は生物学的な起源をもつという考えを擁護するところにある。
というわけで、人間の倫理いうものも、なにか神に与えられたりしたもんじゃなくて、ダーウィン進化の結果成り立ってるものやで、というあたりだろうか。たぶん。
それで、「適応が必ずしも適応的ではない」とかいう言葉(たとえば、高脂質の食物を好む性質は、高脂質の食物が簡単に口にできるようになった現代において「適応的ではない」)に、なるほど、と思いつつも、やはり目が滑る。章の冒頭の引用文などが目に入る、といったらいいだろうか。
なぜ誰もが、腕を生やすことを学習するのではなく腕を生やすようにデザインされていることを、当たり前だと思っているのだろうか。道徳システムの発達の場合でも同じように、多岐にわたって詳細な応用可能性をもつ、いわば道徳判断のシステムと正義の論理を、我々に発達させることを結果的に要請するような生物学的資質があると結論すべきだ。
―ノーム・チョムスキー『言語と政治』
ところが、これが、本の終わりの方に出てくる、道徳の実在論とか非実在論となると、まるでわからんのである。道徳の実在? 非実在? なにそれ? という話である。西洋思想の基盤をもつ人間からすれば入り込める話かもしれないが、そういった話に良くも悪くも地盤のない東洋、あるいは日本人の、しかも高卒程度の学力では、おおよそ見当もつかない。
が、しかし、本書を読み、さらに入門の先の論文(もちろん日本語ではない)にアクセスできるような人には有用な本なのかもしれない。もちろん、想像だが。
以上。
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新しいマズローのピラミッド ダグラス・ケンリック『野蛮な進化心理学』を読む - 関内関外日記
まあ、しかし、たとえば上の本と照らし合わせるというか、基本的な部分で違う言い回しなどされると、いくらかはためになったと思えるわけではある。