おれは目下のところ進化心理学が好きだ。そして、目に止まったのがこの本だ。思ったほど「殺人とセックス」について書かれているわけではなかった。入門書としておすすめです。
で、冒頭に掲げた新しいマズローのピラミッドの話からする。著者は進化心理学の考え方をマズローのピラミッド(これは検索すりゃすぐ出てくるだろ)に取り入れて、新しくしてしまう。ともかく、繁殖ありき、これがベース。マズローが最上級に据えた「自己実現」や、「承認欲求」といったものも、繁殖のため(=モテるため)の要素にすぎないとしてしまう。身も蓋もないといえばない。しかし、自分の遺伝子を残す(必ずしも自らの子を残すことでなくともよい。包括適応度。「2人の兄妹、4人の甥、8人のいとこのためなら喜んで命を差し出すだろう」)ことが、現状生き残ってきた遺伝子の、ダーウィン進化のなかで勝ち残ってきた理由である、そういうわけだ。
ちなみに、ピラミッドが階層上になっているのは、人間の心いうのは「下位自己」(モジュール)なるものが常に席を争っているからだ、というところによる。場合によって必要な「下位自己」が主導権を握る。その下位自己を著者は大きく分けて、「チーム・プレイヤー」、「野心家」、「夜警」、「強迫神経症者」、「独身貴族」、「よき配偶者」、「親」としているが、詳細は本書をあたられたい。ともかく、目の前でヤクザが歩道を占拠しているときに「野心家」や「独身貴族」ではいられない、ということだ。
まあいい、そんなわけで、新しいマズローのピラミッドだ。これを是認するか否認するか、人それぞれだろう。人間の芸術への動機いうもんは、繁殖とは別のものである、という意見もあるだろう。が、おれとしては、そういう遺伝子が今現在存在しているというのならば、それなりに繁殖というものに寄与しているのだろう、と考える。
……が、「本当にそうなのか?」というと、おそらくエビデンスいうもんが出せないのがこの分野なのだろう。そのあたりは訳者代表の山形浩生が「訳者あとがき」で十分につっこんでいる(あと、著者のちょい悪モテオヤジ自慢話についても)。
……進化論的な説明はしばしば、見てきたようなお話に堕してしまう。たとえば人類が直立するようになったのは、森からサバンナに出てきて、サバンナだと立って遠くを見られたほうが有利だからだ、といった説明だ。だれもそんなのをみたことはない(ちなみにこの説は最近疑問視されている)。もっともらしいけれど、でも仮説の域を出ない。本書の多くの議論も、そうした突っ込みの余地はかなりある。
そうなのだ、「だれもそんなのをみたことはない」のだ。タイムマシンで過去のある時期に飛べたとしても、人間が直立するようになった経緯を見ることはできないだろう。
とはいえ、本書では著者が行ったいろいろな実験についても触れられている。が、やはりここもつっこみどころがある。
そしてまた、実験心理学でよく聞かれる批判も、本書にあてはまるだろう。手近な大学生を捕まえて実験しただけで、全人類についてあれこれ言っていいんだろうか。ケンリックの実験はほぼすべて大学の中だけに閉じこもっている。どこまでそれって一般化できるの?
これは、読んでいて思ったところである。だいたいにして、「ロマンチックな気分にさせた」(=エロい気分にさせた)被験者、といったところで、それをどうやって確かめているのさ? みたいな。しかし、それでも、そういった事柄を実験によって確かめてみて、論ずることができたというのは革新的なことだったらしい。「政治的な正しさ」や、ある種のフェミニズムによって、題材だけで否定されてきた時代に比べれば、と。
それでもまあ、わりと全人類についてあれこれ言ってもよさそうなこともある。たとえば、「男性が自分より若い女性を好む現象」が「アメリカの文化規範」、「現代メディアのイメージ」の産物かどうか調べたあたりとか。これについては、1920年代のアメリカの記録や、オランダ、ドイツ、さらにはインド、アフリカ、太平洋の島々、フィリピンの人里離れたポロという漁村における1913年から1939年までの結婚時の年齢データ、17~19世紀のアムステルダムの結婚の記録まであたって、「そのようだ」と結論づけている。このあたりは、さすがに「全人類について」の傾向として語ってもいいような気がするのだが、さてどうだろう。
つっこみどころがあるかもしれない点については、たとえば人間が怒った女性の表情に比べて、怒った男性の表情をすぐに察知する、というようなことだろうか。怒った男性の方が身体の強さによりより危険であり……というような考察。あるいは、男性は女性にくらべて、恋愛において「しなかったこと」をより後悔するという考察。
が、おれが進化心理学について面白いと思うのは、逆にそのあたりなのである。もちろん、実験において脳をスキャンして物理的に観察できたほうが望ましいのであろうが、いろいろの推察をしてしまうところがいい。というのも、おれのような文系極まりない人間にとって、数値がどうの、海馬がどうのいうよりも、ストーリーとして面白いほうが面白い、ということなのだ。いかんともしがたいところではあるが、しかしながら著者も行動経済学や認知心理学、力学系理論とやらと進化心理学の結合について語っているし、「お話」の時代もすぐに過ぎ去るのかもしれないが。
とはいえ、今のところは男女の関係も、信仰心も、なんでもかんでも繁殖のため、という考え方にのっかてみてもいいだろう。おれはそう思う。人間の道徳や倫理いうものも、自然淘汰のなかでより有利にそれらが働いたから、という考え方が好きだ。神というものもそういうなかで生まれたとかも。ちなみに、アメリカのリベラルが婚前交渉などに賛成し、保守派が反対するのは、前者が自由競争のなかで種を残す自信があり、後者はその自信がないためであるとかないとか。
最後に、著者の見解を二つほど紹介して終わろうか。
進化と偏見というものについて、引用の引用になるが。バーバラ・キングソルヴァーという人曰く。
私たち人間はたとえそれが認めがたいほど極端なものであったとしても、過去にいくつかの適応があったという事実を受け入れる必要がある。そうした適応が、私たちが舵をとらねばならない流れの途中にある不動の岩礁であることを知るためだけにも、そうするべきなのだ。
太古の部族時代から受け継がれてきた無数の過去の遺物が、私たちのDNAのらせん構造の上で踊っている。(中略)もしそうした縄に縛られているのを不快に思うなら、最も望ましいのは、ヘビの喉を抑えるようにそれをつかみ、その目で見つめて、その毒を見つめることだ。
たとえば、男性の暴力性(アメリカの殺人の九割が男性によるもので、被害者の七割も男性だ)について、それが現代社会の文化的なものによると断言するよりも(もちろんそういう側面があるにせよ)、「過去の遺物」を見るほうが毒を制することにつながるかもしれない。
そして、ジョン・ロックの「空白の石版」(タブラ・ラサ)という古い喩えから離れるための、新しい喩え。
私はこれまで、空白の石版のかわりに、心をぬり絵帳として考えてみてはどうかと提案してきた。
ぬりえ帳の喩えは実際の人間の脳をありのまま表現するものではないが、空白の石版というイメージに対する、わかりやすい対比になっているはずだ。この対比で、空白の石版というお馴染みの強力な喩えを概念的に拡張して、心と文化の相互作用をもっと鮮明に視覚化できるだろう。実のところ、この喩えは空白の石版に立脚するものだが、心が外部からの入力によって満たされる巨大な空白ばかりでなく、あらかじめ書き込まれた輪郭線をもっていることを想起させるのである。
さて、皆さんはどう思うだろうか。おれは輪郭線がある、というところをとりあえずのところ信じている。人間心理のなにもかもが後天的に空白に書き込まれるものではないと思っている。男女の心理についても、とりあえず違った形で進化してきたというところに立って、そこから平等の話を始めるべきだろうと思っている。そして、おれという単体の今後には縁のない話ではあるが、あらゆる人間が自分の遺伝子(同じ血脈含む)が残る方向にたまたま適応してきたものの子孫であるということにも、あるていど納得せざるを得ないのである。
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