君は国民歌『緑の山河』を知っているか?

 小熊英二の『<民主>と<愛国>』という分厚い本を読んでいて、戦後直後のマルクス主義、革新系における「民族」主義みたいな話があって、その例として、日教組が公募して作った国民歌『緑の山河』が紹介されていた。歌詞は以下の通りである。

戦争超えて たちあがる みどりの山河 雲晴れて
いまよみがえる 民族の わかい血汐に たぎるもの 
自由の翼 空を往く 世紀の朝に 栄えあれ

 文字列だけ見てると、脳内で「民永劫の眠りより 醒めよ日本の朝ぼらけ♪」だの「降魔の翼よ 電波とふるえ〜♪」だの「航空日本 空ゆくわれら〜♪」だの流れてきてしまいそうになるが(俺の軍歌好きを思想傾向ととらえてもらってももらわなくてもどうでもいい。俺にもよくわかってないので。ただ、『緑の山河』がカラオケに入っていたら歌うかもしれないし、こういう曲調? が好きなだけなのかもしれない。そう、労働歌だってなんだっていいんだ。ただ、皆が「聞け万国の労働者」を歌ってるとき、小声で「万朶の桜か襟の色」って歌うかもしれないし、あるいはその逆をやるかもしれん。小声か、口パクでな)、まあともかく、たしかに二行目に「民族」はいってるな、と。

 で、その曲がYouTubeとかいうのであっという間に聴けてしまうのがえらい時代ではある。いや、これに関してはあったのが偶然というレベルくらいだろうが、それでもまったく無かった時代に比べるとすごい。ネットのないころこれを聴こうとしたら、どうすればよかったんだ。こういう品揃えのマニアックな? 中古レコード屋を探し歩くか、大学に入って教員免許を得て教職員となって日教組に所属するしかなかっただろう(いや、その二択ってこたねえだろう)。
 閑話休題。ほんで、次に組合歌が紹介されてて(上のYouTubeでは『緑の山河』を「組合歌」ってしてるけど、たぶん違う)、それはこんな歌詞。三番らしい。

ああ民族の独立と 自由の空にかかる虹
ゆるがぬ誓いくろがねの 力と意志をきたえつつ
勝利の道をわれら行く われら われら われらの日教組

 これまたすげえ軍歌調。というか、なんというか、当時のこういう類の音楽となると、こうなってしまったのだろうか。あと、教師に関しては戦中・戦後で中の人は変わらんと、天皇陛下万歳アメリカ万歳になっただけ、というような面もあるし、なかなかそう言葉だとか、そういったものについての意識は簡単には変わらんかもしらん。人間の語彙とかな、言葉の問題。言葉をどうにかしなきゃいかん、というのは政治、思想、運動のいろいろのところに出てくる話か。
 そんでまあ、これについてもなんかねえかなって検索してたら、2chまとめサイトみたいのが出てきた。

ニダ臭がすごすぎるw
朝から腹いてぇww

日本で民族の独立っておかしいよなw

 お前ら軍歌や唱歌を聴いたことねえのか! 連合国に負けて占領されていた屈辱をしらんのか! あと、いつの歌かくらい調べろ! とか思ったんだけど、そう思う俺自身、その日、たまたまこの本読んでなかったら、『緑の山河』の歌詞を見ても、組合歌見ても、「これ日教組の歌? むしろ右っぽくね?」という違和感抱いたくらいだったろう(あ、はっきり言っておくけど、上の2chの連中と同じかそれ以上に俺は日教組を忌み嫌ってるから。あくまで小学生時代の個人的な体験から……さらば言葉よ - 関内関外日記(跡地))。制定された時期であるとか、当時の日本の状況であるとか、スターリンの対米民族独立闘争の指示とか、あるいは当時のマルクス主義者たちに、中国や朝鮮の民族主義、民族独立、民族教育に学べ、みてえな流れにあったとか、そんなんぜんぜん知らなかったわけで(……本の続きに出てくるかどうか知らんが、「君が代」問題で日教組は代案として「緑の山河」を推してはいないのだろう、今)。まあ、まったく人の無知をあげつらったり、馬鹿にできるような知識がなかったな、と。だいたい俺の中の日本史というと、天照大御神が「光あれ」と言うと中曽根が天の岩戸から出てきて内閣総理大臣に指名され、海の向こうから黒船でマッカーサー元帥がやってきて開国した結果、ロンとヤスと呼び合う仲になった、というくらいだったわけだし。まあ、それは言い過ぎにしても(「ロンとヤス」と呼び合う仲になるまでは、もっといろいろな愛憎劇があったはず)、知らないことが多すぎる。
 というか、なんというのだろうか、人間社会というのは、基本的に、知らないことが多すぎる、というか。主語は大きいかもしらんが、10歳離れていたら、そうとう違うバックボーンだ。戦後も実際に徴兵された世代と、その上の世代、さらにその上の世代というものの意識の違いは大きかったようだ。そして今、この時代にしたって、世代間格差だなんだという話題はつきないが、やっぱり個々人の環境、体験が違う上に、さらに違ってしまう。あるいは、その逆で、個人個人が違う上に、世代の差があるのか。いずれにせよ、主体的で独立した個人というものがあれば、世代なんてものは関係ない、あるいは国境や文化も関係ない、なんていうところの自由さみたいなものがあるべきかどうかというと、そうあるべきかもしらんが、なにか怪しいところを感じてしまう。ただ、それを考えるに知識が足らん。人間なんてもんはおおよそ大昔からたいして変わってない、みたいなところや、ある考えが下手すれば真逆に用いられたりとか、またもどったりとか、その繰り返しだったりするのかもしらんとか、そんなのはぼんやり思うが、まだ足らん。
 だからとりあえず、ザッと眺めなければいけない。そこでくそ分厚い本を読んでいる。買う金がないので借りて読んでいる。読みながら、気になった事柄をインターネットで調べたりしてる。違った言葉、違った語りも出てくる。曲まで聴けた。そんなんでは不十分なのはわかってる。それがなんになるのかはわからんが、とりあえず面白いのでそうしている。成果が出るとしたら56億7千万年後くらいだ。それじゃ。

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

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