『柳田国男論・丸山真男論』を読んだのこと

柳田国男論・丸山真男論 (ちくま学芸文庫)

柳田国男論・丸山真男論 (ちくま学芸文庫)

●例によってこのところの日本の起源論的な興味から手に取った。
●じつはきのうだらだら感想と言うかメモを書いた『単一民族神話の起源<日本人>の自画像の系譜』を読んで - 関内関外日記(跡地)よりも先に読んでいた。したら、あっち本でまるまる一章が柳田國男に割り当てられているし、戦後では丸山真男の話も出てくる。当たり前といえば当たり前だろうが、なんというか不思議と話はつながっているのだな、などと思う。
●文庫本解説の人が「吉本さんの書くものはよくわからない」と書いているし、俺もよくわからん。わからんが、おもしろいと思う。それもようわからんが。
●冒頭の婚姻論のあたりについて、柳田のざっくばらんな論じ方について、高群逸枝が批判してるのが紹介されていて、これも『単一民族〜』に出てきた人だな、などと。それで、それは正論なんだけど、柳田の「常民」の概念からいえば歴史の変遷なんてあんまり意味ないんだって、まあよくわからんが。
●柳田先生が『雪国の春』で、こんなことを書いていたという。

宿の屋根が瓦葺きになつて居て、よく寝る者には知らずにしまふ場合が多かつたが、京都の時雨の雨はなるほど宵暁ばかりに、物の三分か四分ほどの間、何度となく繰返してさつと通り過ぎる。東国の平野ならば霰か雹かと思ふやうな、大きな音を立てゝ降る。

言はゞ日本国の歌の景は、悉くこの山城の一盆地の、風物に他ならぬのであつた。御苦労では無いか都に来ても見ぬ連中まで、題を頂戴してそんな事を歌に詠じたのみか、たまたま我田舎の月時雨が、之と相異した実況を示せば、却つて天然が契約を守らぬやうに感じて居たのである。

 時雨なんてものはその土地々々によって違うはずなのに、京の都のそれが基準になってしまっている。それで、歌とか詠まれてきたんだな、と。でも、それがリアルじゃねえからだめだとか、そうは言ってねえんだみたいな話を吉本センセがはじめるんだけど、むつかしくてよくわかんね。共同の幻想とかいうの。それで、そこに見られる柳田の視線がどうこうと。でも、いずれなんかピンとくるくとがあるかもしれね。
●でも、折口信夫の『古代研究〈4〉女房文学から隠者文学へ (中公クラシックス)』か『歌の話・歌の円寂する時 他一篇 (岩波文庫)』のどっちか読んでて、もろにそういう話じゃないにせよ、なんかこう、リアルな生活とかそういうのから離れた方に行くのは駄目だみてえなのがあったように思うが、このあたりもはっきり言ってわからん。
●で、『柳田国男論』の1が<縦断する「白」>ってタイトルで、わりと「日本人はどこから来たか論」であって、やっぱり『単一民族〜』読んだあとに読み返すといろいろ見えてくるようなところがあるようにも思えたり思えなかったりしたりしなかったりもしないわけでもない。
●現代的な地図で普通に見る遠近じゃ古代の距離は測れないみたいな話は面白い。「船」はたんなる「船」じゃなく、<かたち><大きさ>だけでもなく、<帆><棹><櫓>であって云々とかは、ようかんがえたら『海上の道』読んでねえし、わかんねえけど、まあともかく、ひとつの島の南側と北側よりも、海流の流れによったら200km離れた島のほうが近いんだとか、そういうのは、ああ、そういうもんか、みたいな驚きというか。
●それで、柳田の考える初期の「日本人」とはどんなんだったのか。

 柳田の「日本人」は縄文と弥生のはざまに、稲作適地をもとめてつぎつぎに島々を渡って拡がってゆく<稲の矢印>のことを意味している。そこまでここで使われている「日本人」の概念を凝縮しなければ、柳田の意図を正確に受け取ることは難しいとおもえる。

 柳田が想像していた画像をいえば、ほとんど無人ヤポネシアの島々に、わずかな人数の<稲の人>が、つぎつぎ充ちていくイメージとしか思えないことだ。これは途方もない誤解のように思える。

 とか。それで、吉本さんはそれは江上波夫騎馬民族征服王朝説と同じように、途方もない虚妄だと言うわけ。で、吉本さん自身はやはりというか、混合民族論なのは当たり前だけど、まあそりゃ非漢民族系の稲の人も、ツングース系の馬乗りも、いろんな種族が来たけれども、そんな性急な話じゃないだろうみたいなことを言ってたりする。でも、

柳田の「日本人」という概念が、ほんとうは<稲の人>の点概念でしかないのに、妥当なところがあるとすれば、この点概念の「日本人」が常民という位置で、いいかえれば制度以前の稲の耕作種族の水準で考えられているからだ。統一した制度をつくり、王権として統一した支配の版図をもったかどうかということは<稲の人>としての「日本人」という概念とはちがう次元で出てくる問題だった。

 と。それで、このあと「山人」についてのあいまいさであるとか、それでもなんか柳田が思い描いていた古代「日本人」のそれとか、表題の「白」の話とかつづいて面白かったです(国語は得意だったけど、読書感想文は苦手でした)。
●このあたりの、なんか島国論へ柳田が行ったあたりについて『単一民族〜』ではジュネーヴでの体験、「ちっぽけな島国」としての日本を身をもって体験したことがあったんじゃねえのとか、そういうところに触れていた。
●同じく『単一民族〜』にこんなエピソードがあって、昨日書き忘れたから書いておこう。1925年の講演で柳田が述べたこと。

 この講演は、彼がジュネーヴを離れロンドンにいたときに、1923年の関東大震災のニュースに接したエピソードから始められている。その地の「日本人」たちは、ひとりのこらず母国の大災害に動揺していた。そのときある年長の議員が、大震災は最近の人間が贅沢で浅薄な生活にふけっていた天罰だと発言した。これに対し柳田は、震災で死んだのはそのような贅沢生活と何の縁もなかった下町の貧しい人々であり、彼らが天罰をうけなければいけない理由がどこにあるのかと激しく反論したのである。それ以前から委任統治委員職に辞意をもっていた彼は、これをきっかけに、母国の再建に尽くすべくヨーロッパに別れを告げ、帰国してしまった。

 太字強調俺。いつの時代も同じようなことを言うようなやつはいるもんだと。しかしまあ、その「年長の議員」が日蓮宗系の思想の持ち主だったかと想像してみたりするのもありか。いずれにせよ、歴史は繰り返すとでもいうのかなんというか。
●ちなみに、帰国後の柳田は「稲作」を中心に日本をまとめ上げていく方に行ったと、そこで描かれる農業で自給自足して闘争もないような稲作の島国。柳田自身は単一民族説を採っていなかったが、それが戦後の単一民族神話の基本ラインのひとつになっていった、というのが小熊英二さんの考え。
●次の章は<動機・法社会・農>で……って、もう眠いのでやめよう。ただ、なんか農政学者であり、高級官僚であり、民俗学の巨人である柳田国男って、それでいて書いてることの語り口とかって、やっぱりなんかこう、おもしれえんじゃねえかって思いは強まった。とりあえずこの本も買っておいておこう。柳田国男読もう。おしまい。

関連

天皇制の基層 (講談社学術文庫)

天皇制の基層 (講談社学術文庫)

単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜

単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜