現代日本思想大系〈第16〉アナーキズム (1963年)
この本に収録されている近藤憲二の「大杉をめぐる人々 思い出すまま」を読んでいて、ふとタイトルのような言葉が浮かんだ。「思い出すまま」は大杉栄周辺のアナーキストたち、中には大杉の敵討ちをしかけて獄中死したやつもいるのだけれども、彼らの人物像が文字通り思い出すまま描かれていて、なんともそんな印象なんだ。松田道雄は解説でこんな風に書いてる。
これらの人たちが、自分の思想の代弁を多少バタくさい大杉の中にみいだしたことは事実である。だが、大杉の独唱を低く伴奏したのは、これら「無教養」の人々である。彼らは自分の思想を思想の慣習的な形式において発表するだけのトレーニングをうけなかった。彼らはどれも論文をかくことはできなかった。彼らはかくかわりに生き、たたかった。彼らののこした足跡のなかに、私たちは思想の形式にまで精錬されなかった原鉱を見るのである。
大杉の消失はアナーキズムの運動にとって致命的な打撃であった。大杉がアナーキズム運動を「白紙主義」という無理論でおしすすめ、集団の組み方を中心人物の「気質」に応じるという日本の伝統的な組織論によっていた結果である。
あとに残った人たちも、アナーキズムの理論を発展させるために、労働組合の組織に集中することをしないで、大杉の下手人への復讐という、伝統的組織論にふさわしい反応をしめした。
どの国にもアナーキズムは、テロリストを輩出させる時代を経験した。しかし「仇討」という形のテロは、日本とロシアとに特徴的である。
まあ、日本のアナーキズムは大杉なんだぜ、って具合の松田の編集や物言いに対する批判もあるらしいが、よくしらん。あまり思想とは関係ないあたりをメモしたい。
久坂卯之助
たとえば、ピューリタン的性格を持ち、「キリスト」と仲間内で呼ばれた久坂卯之助。超簡易生活者であった彼は、もとより徒歩主義で、よほどのときでなければ電車に乗らなかった。足にまかせて歩いたものである。健脚でもあった。したがって、久坂さんの尾行は、彼らのあいだでは鼻つまみだった。一日じゅう歩かれるのもご難だが、そのうえ、食事をするときがない。久坂さんが一ぜん飯屋にはいってる間は、外で見はっていなければならぬ。結局すきを見て大急ぎでかきこむが、ポケットにパンでも入れて歩きながら食べなければならぬのである。駒込署の一尾行は、疲労と不規則な食事からきた胃腸病が原因で死んだ。それ以来、彼らの間では、久坂さんの尾行を「決死隊」といっていた。
言論の自由もなく、官憲につけ回されるのが日常。読んでいてそういうところは思わせる。だが、一方で、栄養状態の悪い鳥目の警官の話なども出てきて、この著者の近藤という人の性格もあるのだろうが、どこか奇妙な関係にも見えたりする。
この「キリスト」は弾圧や刑死はしなかった。油絵を描きに行って伊豆天城山で遭難して死んだ。
……三人が行くと、この親切な村人たちは、またもあちこちから集まってきて、彼を火葬するための仕事に、寒い一夜を費やしてくれたという。かくて久坂さんは死んだ。四十六歳の童貞が雪の中で死んだのはいかにも彼らしい美しい死に方であった。いや、それよりも、見知らぬ淳朴な人たちの手によって親切に葬られたことは、もっと彼にふさわしいものであったといった方がいいだろう。
その後、望月桂、村木源次郎らの骨折りで、猫越峠の頂上に「久坂卯之助君終焉の地」なる小さな碑が建てられたのであったが、今はどうなっているであろうか。大正十二年およびその後の伊豆の地震で倒れてしまったのではあるまいか。道行く人よ、通りあわせたら消息を聞かせてくれ。
なんか猫越峠というのも気になるな。どこにあるんだろう、道行く人よ。
村木源次郎
十月の澄みきった空をながめて、私がまず第一に思い浮かべるのは鎌倉の秋だ。大正十(一九二一)年東京監獄を満期放免になって、そのころ鎌倉にいた大杉(栄)のところに寢ころんでいたときの、のどかさである。散歩をすると赤い柿が枝もたわわになっている。椽に坐っていると秋の日光がほかほかと背中じゅうを暖めてくれる。監獄のまずい食いもので脂の抜けきったからだを。そして、身近かに同志たちの声が聞かれる。――私にはそれだけでも十分満足だった。今でもまだ、秋になるとその日をすぐ思い浮かべるほど、それほど私には満足なたのしい日だったのである。
そんなのどかな中で同志たちが語っていたのは、ぶっそうな話だったりするのだが。仲間内で「ご隠居」と呼ばれていた村木が紙の上にピストルの弾を広げて大杉と話していたのを著者は見かける。三日後くらいに、その話を持ち出す。
村木は布団から手を出して、煙草に火をつけながら話しだした。
「君の留守中にひとつ仕事を思いついてね……」
彼はこういって、まるで商売の話をするでもような調子で話しだした。愉快そうな元気な声で――。
「僕はこのとおりのからだだ。とても諸君といっしょにかけずりまわることはできない。しかし、この俺にだってできることはある。君のいないとき、ひと仕事考えたんだ」
つい先日ピストルの弾丸を見た。それとこの話には関連があるにちがいない。私にも、だいたいの見当はついた。彼の気性を知っているものなら、やさしい陰に鋭いものをもっている彼を知っているものなら、これだけ聞けば、だいたいの見当はつく。私は無遠慮に切り出した。
「で、相手は誰だ?」
「原敬だよ」
実行直前まで行ったがし損じた話でおわる。初めは短刀で狙って直前まで行ったが、し損じてはばかばかしいと思い、ピストルでやるべきだと思う。だが、ピストルを持ち歩いてつけ狙ったら、今度はぜんぜん標的に出会わない。「君、なかなかうまくいかないものだよ」。
……ところで、鎌倉出身のおれが原敬と聞いて思い出すのは、通っていた小学校の裏にあった空き地のことだ。うちの小学校にはプールがなく近くの中学校のものを借りていた。ちょうどいいそのサイズの土地を学校のプールにという話もあったが、その土地の所有者は決して手放そうとせず、ついには私用のテニスコートにしてしまった。しかし、ついぞそのテニスコートでテニスをする人の姿を見ることがなかった。その土地の持ち主が原敬の子孫だとかいう話で、おれは腹の中で「原敬とはわるいやつだ」という印象が残った。まあ、小学生が聞いた古いうわさ話なので、事実はしらない。
結局、原敬は暗殺されるわけだけれども(wikipedia:原敬暗殺事件。ただ、犯人は大杉まわりの人間ではなかった。
作家の久米正雄がこの事件の一報を聞いたとき、大杉栄と居合わせていたという。
……そこに女中さんが号外をもってきた。「原首相刺さる」の号外だ。久米氏は、こういうときに大杉がどんな顔をするかを、とくに注意していたというのである。大杉は急に暗い顔をした。――たしか、そんなように書いてあったと記憶する。久米氏は大杉という謀叛人が暗殺という問題にぶつかったとき、どういう態度をするのだろうという、抽象的な興味にひかれていたのであろう。そういう意味で観察していたに違いない。ところが、大杉はそのとき、私が京都でぶつかったのと同じ心配をしていたことと思う。そして、やはり私同様、鎌倉へ帰ったとき、「おい村木、心配したぞ」といったのかも知れない。
また、こんなエピソード。……って打つのめんどうなので、ネットで見つけたこちらのテキストで。
また、村木は『労働運動』の大杉栄追悼号でこんなことを書いていたという。
「いつどこでだったか、五、六人の同志が、いろいろの話の末に、おれの噂をはじめた。一人が、彼奴は文章は書けず、宣伝は不得手、実際運動には参加せず、かてて病身、いったいどうして主義者になっているのだろう、と嘲笑した。そしてみんな同じようなことを語ったとき、(大杉栄が)彼奴は彼奴で、きゃつ相当の仕事もある。黙ってみていたまえ。おれはあとで誰かからこの話を聞いて、ほんとうにうれしかった。……」
結局、村木は関東大震災時の戒厳司令官福田大将暗殺未遂で捕まり、獄中死する。
村木の墓は横浜久保山の共同墓地にあり、その墓碑は、生前彼みずから建てておいたものである。小さい石に四人の名が刻んである。最初にお父さんの名、彼はお父さんと生きわかれをしているのだ。お父さんが行方不明になって、ながい間その行方をさがしていた。日向の武者小路の「新しき村」にいるのではないかというので、聞き合わせていたこともあるが、うわさにすぎなかった。石碑の二番目は彼の名。あとの二人は彼も知らない人の名だ。彼の墓地の隣にいつまでも木の墓標のままになっているのがあったので、ついでに刻んでおいたといっていた。これも村木式だと思う。
いいな、この名前も知らないやつの名前をついでに刻んでおこうという感じ。暗殺事件を決心してからの境地。
この村木の項の最後は、戦後村木の甥に会って鎌倉の秋の日を思い出すところで終わる。
いちど、ひさしぶりに鎌倉のあちこちを歩いてみたいものと思う。禅衣を着た村木が出てきそうな気がするのだ。
……しかしなにかこう、鎌倉やら横浜やら、おれのなじみ深い地には大杉やらその同志やらがうろうろしていた時代もあったのだな。
などと、なにかこう、やはりタイトルのような文言が思い浮かんでしまう。忘れてはいけないが、大杉は虐殺されたのだ。
あと、この本のちょっとあとに載せられている岩佐作太郎という人の文章。1930年のもの。いかにも手きびしい。
ただ、真に、自分自身の解放、人類の自由と平等をこいねがうもののみが、この重責を果たすことができる。近ごろ、よく「日本のアナキストはふるわないではないか」という声をきく。また、「大杉が生きていた時分は、あれほどさかんだったのに」と仲間らしい人々からも聞く。しかし、それらは眼のないものどもの言い分だ。あの当時は本当に――ウソにも――アナキーの運動は解らなかった。ただなんとなしに仕事をしたい人々が集まった。ところが、今は彼らの行くべきところに行ったまでだ。彼らはその本来の彼らにもどったのだ。いわば、彼らはブルジョア的仕事師であった。仕事を享楽したい青年たちがやって来たのだった。彼らには自分の解放は問題でなかった。それどころか自分が何人っであるかは少しも念頭に持たなかった人々であった。彼らは運動のはなやかさが欲しかった。
……(中略)……
とにかく、あのころは景気がよかった。空前の好景気時代だった。人々は浮かれていた。運動も浮かれていた。彼らは革命はあすにも来るようにハシャいでいた。……(中略)……そのうえ、今は空前の不景気時代に直面している。明るい、はなやかさは毛頭ないのだ。どす黒いくらやみが支配している。金のないものは死だ。
今は空前の不景気時代に直面している。明るい、はなやかさは毛頭ないのだ。どす黒いくらやみが支配している。金のないものは死だ、って、まったく、今のおれの実感のようなものじゃないか。それでも、なにかおれはやっぱり、優雅で感傷的なアナーキストたちが好きなんだ。どうにもね。
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