やつは敵である。敵を殺せ。〜『埴谷雄高政治論集』を読む〜

埴谷雄高政治論集 埴谷雄高評論選書 1 (講談社文芸文庫)

埴谷雄高政治論集 埴谷雄高評論選書 1 (講談社文芸文庫)

 政治を政治たらしめている基本的な支柱は第一に階級対立、第二に絶えざる現在との関係、第三に自身の知らない他のことのみに関心を持ち熱烈に論ずる態度である。自身の知らない他のことを論ずるために、私たちはまず他人の言葉で論ずることに慣れ、次第に自身の判断を失ってしまうのが通例であるが、この他人の言葉を最も単純化した最後の標識は、さて、ひとつのスローガンのなかに見出せる。私たちが他人の言葉によって話すということは、もちろん、他人の思想によって考えていることであるが、そこからつぎのような現代の構図をもった悪しき箴言を引き出すことができる。
 スローガンを与えよ。この獣は、さながら、自分でその思想を考えつめたかのごとく、そのスローガンをかついで歩く。
「政治の中の死」

 「はにやゆたか」という名前をはじめて聞いたのはいつだったか知らないが、父がたまに『死霊』という難解で完結するかどうかわからない、でもちょっと完結しなさそうな小説について語るとき聞いたのだと思う。父はほかにホフマン全集のことを似たように気にしていたが、ホフマンがたれかよく知らない。

 傲岸、卑屈、執念 ―これが階級社会を反映した組織の枠内に必ず起る精神の三位一体である。
「政治の中の死」

 さて俺は埴谷雄高を読むことなく三十年と三年くらい生きてきたが、今年になって一つの評論を読むことになった。『現代日本思想体系16 アナーキズム』の最後に「政治の中の死」が収められていたのだ。なにかこう、ガツンとくるところがあった。ただ、埴谷雄高アナーキストなのかどうか、どうもよくわからないところもある。ただ、ガツンときて、これをチョイスした松田道雄ベリーベリナイスだと思ったのだ。


 しかし、松田道雄という人はなんなのだろうか。『世界の歴史 22 ロシアの革命』 の著者として出会ったが、検索すれば在る時代の育児本の第一人者としての話ばかり出てくる。次にアナーキズムについての全集を借りてみれば、その編集と解説をやっている。アナーキストなのだろうか。よくわからない。よくわからないが、『ロシアの革命』で冒頭のゲルツェンとオガーリョフのあたりのノリや熱量に比べて、後半のレーニンスターリンあたりになるとなにかこう、すごく冷めてきてつまらんようになってくる、そういうところは強く感じたのは覚えている。埴谷雄高が反スターリニズムを繰り返して述べるところに、なにか平仄があったような気はした。

……さて、私はこの文章の眼目である政治の意志を述べようと思う。これまでの政治の意志もまた最も単純で簡潔な悪しき箴言で示すことができるのであって、その内容は、これまで数千年の間つねに同じであった。
 
 やつは敵である。敵を殺せ。

「政治の中の死」

 さて、おれは埴谷雄高のバックボーンとなる西洋哲学も知らんし、ドストエフスキーも読んだことがない。また、埴谷雄高の問いかけや主張が今日において有効なものかどうかも知らない。そんなものはとっくに解決しているのかもしれない。だが、そんなことはどうでもいい。おれはどうも現代の新しい思想やなにかについていくだけの知識もないし、あるいは知識をつけようにもそこまでの知的膂力がないかもしれない。だけれども、100年、50年前に書かれた本を読んでいてなにかすばらしいものを感じることがあって、なにかわかったような気になれて、おれも50年、100年後にはいくらか現代のことがわかるようになっているかもしれないなどと夢想することもある。

 まあ、上に述べたことは謙遜にすぎないがともかくとして、現代のこと、同時代のことというと、どうしても苦手の回路が働く。有り体にいえば人間嫌いであり、病理的にいえば回避性人格障害である。おれは人というか、人の集団が嫌いであって、集団に苦痛を感じる類のものなので、「人間の集団というのは醜く悪だ」、「家族という単位ですらそうだ」くらいの病的な思い込みがあって、組織否定、集団否定、党派性否定には安心の居所があると思って飛びつきたくなってしまう。たとえば竹中労が「人は弱いから群れるのではない、群れるから弱いのだ」と言っていたとか言われると、「そうだ、そうだ」などと言いたくなる。おれが強かったためしはないのだが。ともかく、なにかこう党派性のように感じられるものを見てしまう、その臭気を感じてしまうと、まったくもって嫌な気分になってしまう。むろん、おれは人間づきあいというもの避けているので、ネット上で知らない人同士がなにかやりとりをしているのを見ていて、ていどのことに過ぎないが。

 花田清輝よ。この長い歴史のなかには、組織のなかで凄んでみせる革命家もいるが、また組織の外でのんべんだらりとしている革命家もいるのだ。何処に? 日向ぼっこをしている樽の中に。蜘蛛の巣のかかった何処か忘れられた部屋の隅に。そんなものは革命家ではない、と君はいうだろう。まさしく、現在はそうでないらしい。だが、それを決めるのは未来だ。

 ところで、花田清輝よ、蜘蛛の巣のかかった何処かの隅にいるのんべんだらりとした革命家は、いったい、如何なるところから生じたのか。その答えも、最も単純である。それは、彼が革命家だったからである。彼は、革命家となった彼の原則を最後まで貫こうとしたため、のんべんだらりとした革命家として、ただ未来のみを唯一の同盟者としてもつことになってしまったのである。彼は自身を未来の無階級社会よりの派遣者として感じている。しかし、彼のもつ革命方式が組織の中で凄んでみせる革命家たちの方式とあまりに違うので、彼はその生存の時代の実践のなかに席を持つことができず、何処か蜘蛛の巣のかかった古ぼけた隅におしこめられてしまったのだ。このような疎外者を、歴史は異端者と名づけるのだろう。異端者とは、何か。権力を握らぬもの、または、権力を握り得ぬものである。それは非権力者から反権力者に至るまでのすべてを含む。つまり、異端者とは、メフィストフェレス、破門者、反抗者、単独者、デカダン、自殺者、不平家、あまのじゃく、孤独者、潔癖家、予言者、警告家、空想家、おせっかい、おっちょこちょい、こまっしゃくれ、道化、独善家、芸術者、逃亡者、等である。
永久革命者の悲哀

 ところで、花田十輝のかかわるアニメはわりと好きなのが多い。まったく関係ないが、多少は関係あるか、ないか。まあいい。ともかく『ローゼンメイデン』の続編が見たい。水銀燈のラジオだけでも復活させるべきだ。それはそうと、急に思い出したが、埴谷雄高といえば「政治の中の死」のまえに、もうひとつあった。『天皇制破壊への渦動-1・2皇居発煙事件訴訟記録』(ギロチン社・ネビース社・黒色戦線社)の中に「埴谷雄高氏の陳述」というのが収められており、これがなにか興味深く、また、埴谷雄高という名前をこんなところで見るとは、と思ったものである。


 ちなみに、その内容はというと、天皇についての言及ではあるがなにか一筋ではいかないところがある。『政治論集』を読んだあとだと、文学者という(おそらく本来の)ものが前面に出ていると感じる。

 文学者は、そうぞうする力を持っていなければならないと思います。今裁判長は、この法廷では傍聴はあらゆる人に許されているという公開の原則が裁判所のたて前であるといわれましたが、たとえ天皇であれ、乞食であれ、公爵夫人であれ、淫売婦であれ、同格に扱うということが、文学者の建前ですから、天皇というものについて考えないわけにはいきません。ある一人の文学者にとっては、そのみる範囲が決まっておりまして、なんといいましても自分のみる範囲からの主題をつかまえてくる一番近いのは自分ですが、その自分の周囲にあるいろんな人をさらにみてそこに想像力を働かせるわけです。したがって、天皇というものは僕にとってやや遠い存在でありますから、僕自身の周辺をみるほど、それほど考えたり、また、想像するわけではありませんが、現存するすべてを、一応考えてみるのが我々の役目ですから、天皇についても少し考えております。

 政治的には「これは大島さんとは違う点かもしれませんが、資本主義全体の中に包容されている大きな力であって、全体が変われば天皇制自体も変わるんだというふうに思っております」というあたりだろう。

 話を戻そう。

 さて、ところで、彼らのなかに、虫が好かぬといった程度の政治嫌い、権力嫌いとはことなった極度の理論癖をもった非権力者がいると、その変革の理論の最後の証明をただひたすら未来の無階級社会に待たねばならぬという唯一の理由によって、彼は永久革命者になってしまわねばならない。
永久革命者の悲哀

 おれは孤独者なので「かれら」の一人とさせてもらうが、まあ理論癖の人間とは言いがたい。おれは優雅で感傷的なだけだからだ。ただ、それでもひたすらに未来の、来るか来ないかもわからない無階級社会……というより、ひたすらの自由だけを夢見ている。

 人間生活の終末は、すべての人工組織から開放せられて、自らの組織の中に起居する時節でなくてはならぬ。つまりは、客観的制約からぬけ出て、主観的自然法爾の世界に入るときが、人間存在の終末である。それはいつ来るかわからぬ。来ても来なくてもよい。ひたすらその方面へ進むだけでたくさんだ。
「現代世界と禅の精神」鈴木大拙


 ただ、おれにはどうも埴谷雄高アナーキストかどうかわからん。いや、自己申告していないので違うのだろうし、やはり文学者なのだろうか。まるでわからん。アナ的ボルとボル的アナなんて話もあるが、そういうレベルで語れないようにも思えるが、まだようわからん。というか、やはりレーニンの『国家と革命』にやられたと本人が言っておるのだから、アナーキストというわけにはいかんのだろう。

 レーニンが悲愴で皮肉な盲点のなかにあったところの、革命においても変革されなかった唯一のものとは、さて、党である。
「敵と味方」

 モスクワの赤い広場にひとつの霊廟があり、そのなかにレーニンの遺体が横たえられている。私は、このような公然たるロシヤ革命への侮辱、人民の新しき世代への侮辱、進歩する人間精神への侮辱、未来の無階級社会に対する侮辱が、ひとびとの批判もなしに数十年もつづけられてきたことのなかに、ピラミッド体制の驚くべき、恐るべき重さを知って、歯がみせざるを得ない。
永久革命者の悲哀

 ただ、どうもおれにはこれをこうだと言い切れる知識はないが、埴谷雄高にとってのレーニンは悲劇への愛惜、スターリニズム(……がなんなのか説明せよと言われても、漠然としたイメージを持つていどだが)を予見しつつ敗れ去った存在のようだ。「革命いまだ完了せず」のバブーフに対しても、似たような評価をしていて……って、バブーフもまだよく知らないが。

 ただ、ともかく、これはもういろいろの人がいろいろの指摘をしていることと思うが、革命されたところでピラミッドの、大小のピラミッドの構造が変わらず、首がすげ替えられるだけだ。そこに「やつは敵である。敵を殺せ」の政治があるかぎり、無階級社会は、自由はないんだと。

 まあ、たぶんそういうことなんだろうと思うのだけれども、そこんところで、前衛のありようというか、革命家のありようというか、なんかアナーキズムでは無理なんだってところが埴谷雄高の中にはあるのかもしらんし、実際そうなのかもしらん。

 花田清輝よ。私が未来に届けようとする暗黒星雲に似たひとつの報告書の仕事は容易にできないが、もし次の章ができあがれば、そこにはこういう一主題がある。 ― 革命家は革命家たるために革命が到来すれば直ちに死んでしまわねばならない。これは比喩的に解釈されようと、実際的に解釈されようと構わないが、もし幸いにしてその章ができあがれば、そのとき、われわれは革命と革命の意味の問題をまたむしかえそうと思う。君も私も、ともに、もっともすっきりとしたかたちで支配と服従の死滅した世界へ飛びこみたいに違いないのだから。
永久革命者の悲哀


 革命家は革命を成就したら死ななければならない。党は解体されなければならない。だが、実際にそんなことはまず起こらない。

 階級社会の廃止を唱える彼に、鸚鵡返しに、党の廃止について質してみれば、まったく思いもよらぬ他の天体からの質問を受けたごとくに徒に狼狽してしまうだけでしょう。
「自立と選挙 ―吉本隆明への回答」


 回答といっても、その前に何を言って、どんな公開質問状が来たのかわからんが、「憤懣と苦痛を噛みしめながら投票にゆかない私」が「投票はしないけれども、名前は自由に」と黒田寛一の応援者に言ったりした件についてみたいだが、まあよくわからんが。

 おれはといえば、なにかわりとどうしようもなく投票をしては、わりと後悔ばかりしている感じなのだけれども。ただ、志位か不破か忘れたけれども、テレビの討論番組かなんかで日本共産党共産党の名を捨てない理由を語るなかで、「われわれはやがて国家が消滅することを理想とするロマンチストである」みたいなことを言ってて、これは他の党は言わんだろうなというところもあって、その一点で基本的に共産党に座布団一票くれてやる、みたいなところはある。あるけれども、たとえばおれが日本共産党の人間と、組織と関わりを持ちたいかといえばまったくもって完全なノーノーネヴァーなんだけれども。

 私は嘗て、一票を投じることによって一日だけ主権者になることが絶えざる主権者とならないことの免罪符となる、と書いたことがありますが、現在は、一票を投ぜないことによって一日だけ否定者になることが絶えざる否定者とならないことの免罪符となる、とでも言い換えねばならぬ時代なのではないかと思われるほどです。
「自立と選挙 ―吉本隆明への回答」

 うむ、わからん。

 まあ、次に『埴谷雄高思想論集』を読むつもりではあるし、そうなると評論選書3の『文芸論集』も読むことになるのだろう。

 となると、やはり本業といっていいのかわからないが、小説に手を出すことになるのだろうし、『死靈』は避けられない。

 そうすると、先にドストエフスキーとか読んどかなきゃいけないような気もするが、正直そうなるとなぜか気が進まない。べつに強いられている勉強じゃないから進みたい方に流れればいいだろう。なにをしているわけでもないのだし。

 ところで、写真はどこで撮ったとか、なにで撮ったとか、まあべつにどうでもいいですか。ほら、こないだ買った単焦点ですがね。植物や昆虫を撮ることになるのならば、マクロレンズを用意するべきだったとか後悔するけれど、重いの嫌じゃん。

 まあ、想像の中の足立は修羅の国だったけれども、実際は横浜市中区より完全にはじまっていて平和だったですね。ポプラの綿毛というのは正直はじめて見ましたね。並木に植栽されるのは雄木ばかりで、みんな童貞ってことなんでしょうかね。まあいいや、おしまい。