横浜に金環日食は起こらない


 大横浜市大中区のありとあらゆる人間が東へ東へと集まり集まり、港の見える丘公園からは崖下に落ちる人が後を絶たず、山下公園では押し合いのすえに海に落ちた人間の死骸によって公園が少し広くなるというありさまであった。

 しかし、空は黒雲が覆い播いた種は芽を出さず、育った稲穂に実りなく、あらゆる果実は樹上で裂け、家畜はやせ衰えて死んでいった。中村川大岡川も捨てられた死体によって異様な臭いを放ち、街の空気も腐り果ててしまったようだった。

 大市長が神に背くようなことがあったのではないか。民衆の疑惑は怨嗟となり、怨嗟は怒号となり大横浜市中に響きわたっていった。老いたる者も若き者も、それぞれの部屋で血染めの叛旗と鋭く研いだ竹槍を用意しはじめていた。

 その時である。大横浜大市長が氷川丸の四十六糎砲を轟かせたのである。その音に引き寄せられ、山下公園に集った民衆に向かい、大市長はこう述べた。
 「われわれの大横浜市を照らす太陽がひとときたりとも欠けることがあってはならぬ。ゆえに、つかのま隠しただけにすぎぬ。勇敢にして聡明なる大横浜市民はこのようなことで動揺せぬ。見よ!」

 すると黒雲は取りはらわれ、富める者も貧しい者も健やかなる者も病める者も陽光の恵みを受けた。枯れていた薔薇は花開き、稲穂は黄金色に輝き、家畜はまるまると太り、人々は労働と娯楽、文化にと打ち込んだ。陽光の下で都市は開発され、生活に必要な動力はすべて太陽がまかなった。こうして、大横浜市の栄華はボスポラスより東において極大のものとなったのである。
 親愛なる大横浜大市民よ、このことを三百年後の子孫に語り継いでほしい。はまみらい、弥栄!