投票用紙は免罪符じゃない

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愛はおしゃれじゃない、投票用紙は免罪符じゃない。

今日、関内には雨が降っている。12月にしては生暖かい風が吹いた。

私は嘗て、一票を投じることによって一日だけ主権者になることが絶えざる主権者とならないことの免罪符となる、と書いたことがありますが、現在は、一票を投ぜないことによって一日だけ否定者になることが絶えざる否定者とならないことの免罪符となる、とでも言い換えねばならぬ時代なのではないかと思われるほどです。

埴谷雄高

選挙を棄権するものは愚かである。白票を投じるものは愚かである。ではほとんど明確な死に票を投じるものも愚かなのか? いったい、そもそも、おれはおれが愚かでなかったことなんてなかった。

おまえは聡明だろう。学歴もあるだろう。十分な収入と将来の見通しもあるだろう。外国の言葉まで喋れるかもしれないし、海外に出かけることだってあるかもしれない。家や車、子供がいるかもしれない。未来の経済について語る能力があるのかもしれない。

おれにはいっさいない。社会生活に関するおおよその能力を欠いて、だらだらと生きてもいない毎日を過ごしてしまっている。これから向上することもないだろう。明日の食い扶持の不安に怯えて、薬で脳を麻痺させながら這いずっている間にカレンダーがめくられる。花丸の予定はない。電気やガスや水道が止められる日が記されているかもしれない。

自転車のサドルに雨粒がついていたので、素手で取り払ったら、なにか付着しているのに気づいた。鳥の糞がついていたのだ。おれは再び鍵を取り出しドアを空け、手を洗った。

たかだか選挙を棄権する愚かもの、怠け者を否定するような社会は最悪の気分にさせてくれるような社会に違いない。そういう想像力のない人間というのはおれを最悪の気分にさせてくれるような人間に違いない。ただし、この世はおれを最悪の気分にさせてくれるのだし、おれを最悪の気分にさせてくれるような人間のおれを最悪の気分にさせてくれるような仕組みや組織のお陰でおれは辛うじて生きているに違いない。その事実もまたおれを最悪の気分にさせてくれる。

あらゆる組織には自己保存の本能を内包させている。変革者は成就とともに死ななくてはならない。死体を積み上げない世界におれを最悪の気分にさせない未来は訪れない。あらゆる社会の仕組みはおれを最悪の気分にさせてくれるような、能動的で優秀、意識の高い人間によって作られる。それがどんな仕組みであろうと変わりはしない。首をすげ替えても変わりはしない。

ちょっとした段差に乗り上げたら自転車のチェーンが外れた。おれは手袋を外して素手で直した。遅刻したおれは自分の机より先に洗面所に行き手を洗った。人よりチェーンの掃除をしていようが、手が汚れることにはかわらない。おれは手を洗った。

おれは創世のことを考える。おれたちの遠い祖先は遠いところから放逐されてきた。放逐されたもののなかから、さらに放逐されるものがいる。地獄はフラクタルを描いて地表を覆ってしまった。逃げ場なんてどこにもなかった。そして適応のない親からさらに適応のない子が生まれる。

「よりよい」を求めるがゆえに、「よい」を放棄することは正しいのか。積極的でなくてもよいから、わずかな差を無理やりにでもつくりだして「よりよい」を選ぶのは正しいのか。

おれがどう選択しようとおれの自由である。おれがなんの免罪符を買って、どの山から高みの見物をするのかおまえには関係ない。ただ、この世に最悪の気分を感じない人間からすれば、おれは地の底の虫けらにすぎない。

いずれはどこかのカップ麺に混入するだけの存在だ。おれは愚かでなかったことはなかったし、この先かしこくなることもない。おれが権力を持つこともないし、おれが金の心配をしなくなることもない。おれは最悪の不安に常に覆われながら、目的もなく這いずる。おれはこの世界を否定するための免罪符を買っていくらかの安心を得るのか。わずかな「よりよい」を選び、それを免罪符とするのか。

さあ、どの券を買って「それ見たことか」と言うことにしようか。おれは悲観する。悲観論者は不幸に好まれ、不幸を好む。おれが愚かでなかったことはないし、おれにはなにもわからない。おれに楽観の意志があったためしはないし、世界はおれを今日も最悪の気分にしてくれる。

 


やつは敵である。敵を殺せ。〜『埴谷雄高政治論集』を読む〜 - 関内関外日記