人の役に立つことができないから、まともに生きる資格を与えられない

おれは1月4日日曜日の午後10時30分にいろいろの薬とともに超短時間作用型入眠剤を飲んだ。年初とはいえ年度末がはじまる。昼夜逆転してしまった年末年始の生活を改めなければならない。早めに寝ることだ。

目が覚めたのは1月5日の午前2時ごろだった。「おい、起きてテレビとか見る時間だぜ」と身体が気を利かせたかのようだった。そりゃあないだろうと思った。ここですぐにもう1錠いけばよかったのだが。すぐに寝付けるだろうと思ったおれは、読みかけの本などに手を伸ばし……結局午前4時くらいまでもぞもぞしていた。

新年早々最悪の気分で働きはじめた。

いや、そもそも働くことは最悪の気分じゃないのか。

働いて金になるならいい。それで余暇を楽しめるくらい金になるなら悪くない。ところがおれの労働ときたらどうだろうか。生きるのにかつかつ、ギリギリ。いや、もうギリギリどころか足りていない。わずかな預金をわずかに切り崩しつつ貧しい生活の足しにしている。すぐに尽きる。おれはおれを吊るすだろう。転職? おれは変化を恐れ、嫌う。死んだ方がましだというくらいに。

働けど、働けど……。このレベルの生活をおれはずっとしてきた。ニートを辞めざるをえなくなって、働きはじめてからずっとこんな感じだった。おれには金がない。社会はおれに金を与えてくれない。おれには生きるだけの価値がないということだ。いったい、他人に生きるに値すると認められて、人一人生きていくことということの高いハードルを、なぜ少なくない人たちは平然と飛び越えていくのだろう? 飛び越せる能力があるのだろう? それはnatureなのかnurtureなのか二択ではないのか。いずれにせよ、おれはそれを持っていない。だからこの窮状だ。いったいおれはどれだけ頑強な精神を持てばいいのか。疲れない肉体を持てばいいのか。ものごとを楽観できるだけの意志を持てばいいのか。たとえば、自動車を買うとか、家を建てるとか、家庭を築くとか、そういう階級になるためには、どれだけ優秀で賢い人間であればいいのか。想像がつかない。おれにとってそれらは「メジャーリーガーになる」のと同じくらい、遠く、高いところにある。

人の役に立つことができないから、まともに生きる資格を与えられない。当然の帰結か。しかし、それにしたってこれはひどい。ひどいけれども、まだ人類はおれのような個体を完全に淘汰できていない。ひどい話だ。そしておそらく、おれと同程度の人間、おれ以下の人間もいることだろう。少なくともこの世界では不要なもの、邪魔者、お荷物、ゴミにすぎない。これが毎日地獄を作り出している。怨嗟や後悔に焼かれて生きている。そして人は恥で死ぬ。いったどんな神様がこんな世界を創りだしたのだろう。

あるいは、神様が創りだしたころはこんな地獄はなかったのかもしれない。自分の食うものを森のなかか何かで見つけて、自分で食う。これで済んでいればこのような地獄はなかった。なにか複雑でむつかしい大きな機械が動き出して、われわれは単純ではいられなくなった。それが目的だったのか、結果だったのかわからないが、おれのような役立たずもすぐに死ななくなった。生きることに直結しないものが世界で大きな顔をするようになって、生物に必要でないことがらで役立つか役立たないかをはかられるようになって、本来不必要な地獄が再生産され続けるようになった。なにか複雑でむつかしい大きな機械はこの世をそのようにしてしまった。

おれはそのなにか複雑でむつかしい大きな機械のことが大嫌いだ。それによって辛うじて生かされていようと、ときに楽しみを得ようとも、そいつを叩き潰したいという思いがある。あるいは、そのなにか複雑でむつかしい大きな機械が、もっと完全な存在になって、この煩わしさのすべてから解放してくれるというのなら、それでも構わないと思う。

今はなにもかもが中途半端で、おれは最悪の気分で新年の労働2日目を迎え、不毛な労働をする。今日もどこかで地獄が再生産されている。なにか複雑でむつかしい大きな機械の歯車が止まることはない。