少し前に、このような記事が衆目を集めていたようだ。それに対する真摯な反論も出されている。
「悪質な業者にご注意ください」っていう煽り文句って悪質業者の広告でよく見かけるよね。 - 不動産屋のラノベ読み
とはいえ、不動産屋というものはなぜか人から胡散臭く見られ、敵視されているように思われる。その理由として、おれが書いたもので今まで最大級に読まれたものは、賃貸がらみ話だったからだ。
不動産屋がなりふり構わず敷金を返そうとしない件について - 関内関外日記
どうという話でもないわりにブックマークがついた。なにか不動産業に対して、人々が思うところがあるのではないかと、それ以来思うようになった。おれが次に世話になった不動産屋、その不動産屋が廃業して引き継いだ不動産屋にも不満はないが、なにか油断してはならないという気持ちが、自分の中にないでもない。
思うに、不動産屋は矢面に立たたされているだけ、という気もする。その向こうにある地主というものに対する不信感、憎悪、猜疑心といったものがあって、不動産屋がとりあえず矢面に立つ。そういうところがあるのではないのだろうか。不幸な話かもしれない。とはいえ、不動産屋自身が土地を有しているという話もあるかもしれない。
不動産、というものに対する不信感というようなものがある。なぜ、彼ないし彼女は土地を私有しているのか。ひるがえって、なぜ我はそこに居るためだけに金を払わなければいけないのか。賃貸にしろ購入にしろ、居るために金がいる。金がなければ居てはいけない存在ということになる。世界というものに対して、自分が居るためには金を払う必要がある。それが不可能であれば、居る権利を失い、存在は否定される。
土地というものはだれかが私有するべきものなのであろうか。この世には私有されたり、金銭でやりとりされたりすべきではないものが存在するのではないか。そこになにか根源的な疑問があって、地主や不動産屋は忌み嫌われるのではないか。おれはそのように想像する。
世界と個人の存在の許容の具体的な境界線に不動産屋がある。とはいえ、それは不動産屋に限った話であろうか。
おれが自分の身体を維持するためには、物を食わねばならぬ。物を食うためには、物を買わねばならぬ。たとえばおれはスーパーマーケットなどに金を払い、おれの餌を買う。おれは金がなければ存在が許されていない。そういう意味では不動産であれ、税金であれ、なにも変わらない。おれは貨幣に憎悪を乗せて差し出す。
金銭の授受は感謝か憎悪か。
おれは後者なのではないかと思う。憎悪としての貨幣。これが複雑に巨大化して経済というものをつくり出す。我々はその中を生きさせられている。そのように思いつく。
思いついただけのことである。無論、おれは高卒で無知も無学もいいところだ。だが、やはり土地の私有についてはいつも疑問に思っている。そして、憎悪としての貨幣。憎悪としての経済。そういうものがありうるのではないのか。現状がそうなのではないか。そのような疑問を抱く。経済学にとっては初歩の初歩かもしれない。とはいえ、おれには算数がわからぬから、経済学の教科書を開く気すら起こらない。起こらないが、起こらないなりに、憎悪としての貨幣という発想について、なにか知りたいとは思う。憎悪としての貨幣、憎悪としての支払い、憎悪によって回っている世界。
おれはそのようなものを知りたいと思う。いや、そうであってほしいと願っている。もしも感謝としての金銭の授受がこの世を回しているのであれば、回ってこない自分は感謝から否定された存在になる。それはおもしろくない話だ。おれは憎悪を否定する代わりに金がない。そのような存在であると自分を思うほうが、いくらか楽ではある。その楽が卑劣で卑小な発想だとしても、そう思いたい自分というものがいる。無論、おれが生きる世界が地獄のようであっても、他人が生きるそれが地獄であるべき理由などないのだが。