2012年は実在したのか?


 「時間ってなに?」
 とは、小学生になるかならないかの私が、祖父の友人に質問したことである。祖父のもとをだれかが訪ねるのは珍しいことだった。「このおじいさんは何でも知ってるから、なんでも聞いてごらんなさい」。祖父は京大出の化学博士で、その友人もどこかの教授かなにかだったのではないか。
 腑に落ちる答えを得た覚えはない。
 大学を中退して、ニートになった。そのころ「ニート」なんて言葉はなかった。ただ、引きこもっているうちに「ひきこもり」という言葉は出てきた。家族で飯を食っていて、テレビでひきこもり特集などやられると気まずくなったものだ。気まずくなるだけだったが。
 そんな中である「ひきこもり」が、「これはカレンダーのない生活だ」だったか、「カレンダーのない人生だ」だったか、そんなことを言った。まったくそのとおりだと思った。カレンダーは失われた。
 以後、紆余曲折あって、一家も離散し、おれもひきこもっている家がなくなるということになって、すっかりわけのわからないまま労働の前線に駆り出されて、今日に至った。今年も、こないだ風邪をひいたときに半日休んだくらいじゃないだろうか。よくわからない。
 これは、労働意欲が高いわけでもなんでもない。おれは正反対の性格を持っている。働きたくない、ひきこもっていたい。けど、学校に行きたくない、居場所がない、ゆえに行かない……ではなく、機械のように皆勤してしまう感じ、わかるだろうか? わからないならいい。おれは高校の最後など、そのようなものであった。
 その話はいい。カレンダーの話だ。ひきこもっている間に失われたカレンダーの話だ。結局それは、失われたままなのだ。おれは自分の生年月日くらい知っているが、何年に大学に入り、何年ごろにドロップアウトしたか、さっぱりわからない。横浜で暮らし始めて何年経つかもわからない。卒業なり、就職なり、結婚なり、子供ができるなり、節目というものがないまま、ただ時間だけが過ぎてきた。過ぎている。過ぎていく。
 いったい、今は何年なんだ?
 今年はとくにそれが激しい。忘年会どころじゃない、本当の年忘れだ。それどころか、月の経過、季節の変化というものがまるで実感できない。11月になっても、ふと、今年の夏がいつ来るのかと、本当に思うことがある。
 人間、年齢を重ねるごとに、一年が短く感じられるようになる。なんとかいう名前のついた心理現象。そんなのは一応、人並みにはある。だが、それとはまったく異質の感覚だ。ひきこもっていたときにもありえなかった違和感だ。日付つきのファイルやフォルダを作るときにまったく混乱してしまうのは、西暦下二桁と月がややこしくなっているせいなんかじゃないのだ。
 時間が止まっている、わけはない。
 おれが止まっている、のか。
 精神科に通い始めてそろそろ一年経つが、投薬の影響だろうか? 外にあまり出ず、本ばかり読んでいるせいだろうか? 長年一年のリズムを作ってきた競馬をやめたせいだろうか? まるでわからない。あるいは、これがある一線を超えた「この歳になると、ほんとうに一年が早い」なのだろうか。
 2012年11月27日? 記す。