加藤忠史『動物に「うつ」はあるか』を読む

動物に「うつ」はあるのか (PHP新書)

動物に「うつ」はあるのか (PHP新書)

 かつては「狗に仏性はあるのか?」と問われたものだが、一億総メンヘル時代の今日においては、この本のタイトルのようになる。「動物にうつは有りや無しや」。趙州和尚はなんと答える?
 それはともかく、また加藤忠史先生の本である。双極性障害については以下のごとくである。

 病相を反復することが双極性障害の本質なのですが、これを満たす動物モデルはなく、病相予防効果を動物実験で調べる方法はいまだありません。
 そのため、驚くべきことに、双極性障害の薬を開発する試みがうまくいったことはありません。双極性障害に使われている薬は、五十年以上前に発見されたリチウムのほかはすべて、てんかん統合失調症の薬として用いられていた薬がじつは双極性障害にも有効であることが偶然わかった、というものばかりなのです。

 と、『躁うつ病に挑む』にも似たようなこと書いてあったな、ということくらい。おれの愛するジプレキサ統合失調症の薬が横滑りしてきたものだ。

 さて、おれの関心領域は統合失調症でもなければ大うつ病でもなく、自分が付き合わねばならぬBD2なのだから、この本はこれでおしまい。
 ……というのももったいないというか、全部読んだのだからいくらかメモしておこうか。とはいえ、「タイトルは釣り」とは言わないまでも、人間の精神疾患をいかにマウスなどの動物実験で行なうかという話であって、「ふむん」とか思うよりない。というか、上にあるように、まだまだ動物実験で人間の精神病の原因を突き止められるかどうかもわからぬという段階といったところか。なにせ、動物は言語にコミュニケーションがとれない。脳の特定部分の活動をファンクショナルMRIポジトロン断層法で確認するとか(両方とも言葉がかっこいい)、まどろっこしい方法しかとれない。けど、そもそもその実験に使われる実験室のマウス自体がモデルとしてどうなのか。ストレスや臆病さを測るような実験でも、野生のネズミを連れてきたら全然違う動きをしたぜ、なんて話にもなる。だから野生の性質をもったマウスを使ったほうがいいんじゃねえか、とか。

 それではいけないだろうということで、現在、私たちが実験に使っているのがMSMマウスです。
 これは、三十年以上前に三島で捕まえられたマウスです。小さな女の子がネズミを捕まえ、それを箱に入れて三島の遺伝子研究所にもっていったそうです。すると、そこの先生が「わかりました。われわれが責任をもって育てましょう」と引き受け、それ以後、DNAに個体差がなくなるまで何度も何度も交配して、純系化したのがMSMマウスです。

 いや、正直なところおれが思い浮かべたのは『とある科学の超電磁砲』2期だったりするんだけど。なにせ実験用のマウスだものな。女の子は自分がしたことで、御坂美琴みたいに苦しまなければよいのだけれど。……と、まあ実験動物に対する一般人の意識なんてのはこんなもの。
 なので、加藤先生もわりとページを割いて動物実験がいかに倫理的に行われているか、弔いの気持を持っているか述べるわけで。そして、それはとうぜん、おれが今のところ破綻していないという事実に寄与している薬の背景にもあるものだし、泳がされたり、しっぽから吊るされたりした大量の命にいくらかの感謝を持つべきなのだろう。
 そうだ、マウスの実験から明らかになりつつ分野もある。たとえばオキシトシンの働きであるとか、アルツハイマー病の前駆状態にあるかどうか診断できそうになりつつあるとか。いやはや。
 ところで、話は変わってDSMのこと。最近読んだ内海健先生がそれに頼り切る臨床に批判的だったんだけど、別方向から加藤先生も批判していたのが興味深かった。

 「DSM」は改訂を続けることが前提となっているもので、現在も改訂が行われていrます。2013年には「DSM-5」(現在は「DSM-IV」ですが、次回からローマ数字をやめて、算用数字になります)ができることになっているのですが、私としては姑息的(その場しのぎの)改訂ならもうしなくていいんじゃないか、と思っています。
 面接にもとづいた診断分類については、百年前から延々と議論されていますが、精神疾患に対する見方はそれほど根本的な変化が起きているわけではありません。精神疾患の分類が根本的に変わるのは、先端技術を使ってその原因が解明されたときになるはずです。

 内海先生も百年前のクレペリンの「軽躁」を現在でも範になるとか言ってたな。まあ、そういうわけで、いつかガツンと人間の脳の機能が十全に解明されるまでは、細かい改訂なんて必要ねえだろという立場なのですな。
 と、あとはなんでしょうか。臨床研究と基礎研究の(連携の)あり方であるとか、東大紛争から二十五年続いた精神病棟自主管理闘争の「反精神医学」(すべてを社会のシステムに還元しようとする考え?)によって研究がすげえ遅れたんだとか、読みどころは少なくなかったかな、と。
 それはともかく、原因の解明。こうなると、今は病気扱いになっている(せざるをえない)「悩み」と「病気」ははっきりと分けられるし、余計な病名も薬も必要となくなる(「悩み」は心理士の役割)と。
 でも、その先におもしろい話があって、たとえば季節性うつ病の人がいたとして、その人をそう診断して光療法(そんなのがあるのか)するのがいいことなのか、なんでもかんでも九時五時仕事で働けという環境のほうがおかしいんじゃねえかというわけ。

 私は「精神疾患をなくせ」とは思っていません。患者さんからは、「精神疾患を撲滅してほしい」という要望が出るかもしれませんが、私は、なくならないと思っているのです。
 「精神疾患をなくせ」ではなく、いろいろな体質の人がうまく過ごせていけるような社会をつくっていく、いろいろな体質の人が世の中で過ごせるように援助する、ということが、本来的な私たちの目標とするべきところではないか、と思っています。

 うつ病のない社会をめざそうと思うと、何が必要かといえば、ほんとうに「すべて」です。やはりなんといっても貧困は、うつ病のリスクです。ある程度の豊かさが必要です。バランスのとれた食べ物も必要です。好きな仕事に就けることや、家族関係の安定、居住環境……。いろいろ考えていくと、うつ病をなくすためには政治がやっていること全部をやらなければならないのです。

 うーん。「政治」がそこまで介入してくることの是非は? などとも思うが例えばおれが貧困の不安から抜け出せればたくさんのベンゾジアゼピンは必要なくなるだろう(ジプレキサは予防のために必要かもしれないが)。
 でもまあ、日本にはどんどん余裕がなくなっていくだろうし、本当に大勢の人間が不安に陥り、病み、命を絶っていくことだろう。おれもきっとその行列に加わることだろうし、救いというものはまるでどこにもないのは、わかりきったことだ。おれにはそれを受ける権利がないこともわかりきったことだ。せいぜい、死んだ後に脳でも解剖してもらって役に立とうか。マウスのように電気ショックや強制的に泳がされるよりはいくぶん楽だろう。死んだ後なのだから。

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