さて、帰るか

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おれはあまり外食というものをしない。外食といってもどこそこの有名店で舌鼓をうった、などという話でもない。単にそこら辺の牛丼屋だのなんだのに行くことじたいが少ないのである。

そんなおれが本当に久々に吉野家に行った。吉野家は狭いおれの行動範囲の外にあって、めったに入ることがない。そこでおれは何を食ったか。ベジ牛である。吉野家がベジをはじめたことはネットで見た。さて、実物はどのくらいベジだろうか。それを確かめるにはベジ丼でいくべきところだろうが、ベジ牛に日和ってしまうところがおれの人間としてのスケールを表している。

とはいえ、このベジ、なかなかにボリュームがあった。一人暮らしをはじめたばかりの独身男が、野菜を使ってみて、結果的にどのていどのボリュームになるのかわかりませんでした、という感じがした。野菜というのは火を通すとしんなり小さくなるくせに、ちょっと油断するとわりとばかみたいな量になる。

まあ、大手牛丼チェーンで「ばかみたいな量」ということはないが、わりとそれなりにベジってきたな、という感があった。おれの食が細くなってきているのもあるが、もう十分です、という気持ちにもなった。ブロッコリー、いんげん、ベビーコーン、ニンジン、キャベツ、それにさつまいも。そんなところだろうか。さつまいも、というところが悪くない。全体的に歯ごたえというか食いごたえを意識させてきたな、というところだ。それにやけに熱くて、ブロッコリーでやけどしそうになったくらいである。悪くない。

安田記念はといえば、馬券的に悪かった。距離やらなんやらが違えども、中山で突き抜けたドゥラメンテが府中でも突き抜けたように、素直にモーリスを信じればよかったのだ。おれの本命はフィエロだった。直線ちょっと詰まったかなと思ったが、まあ結果は変わるまい。

安田記念の前に図書館に行って、図書館から帰ってきた。二冊本を借りてきた。そんなおれの部屋は本や漫画の山積みだった。映画『バードマン(以下略)』を観て、レイモンド・カーヴァーの『愛について語るとき(以下略)』を探した結果、そうなったのだ。いや、あえて無理して押し入れから本を出して出して出しまくったのだ。そろそろ整理が必要だと思ったからだ。

いろいろの本の中には、買って読んでいないもの、買ったことすら忘れていたもの、買って読んで途中になっているもの、ともかくひっちゃかめっちゃかだった。いつか図書館で借りて読もうと思っていた本が2冊も出てきた。それなのに図書館で本を借りてくるのはなにかおかしい気はする。未読の本だけで一年、いや、少なくとも半年は保つだろう。とはいえ、おれの興味が向かなければおれの所有物であるかどうか、古いか新しいか、まったく関係なく読めないのだが。

とはいえ、買って読んでいない漫画、というのはない。そう、漫画なのだ。女に貸していた漫画がドサッと返ってきて(口が滑って「うちのアパートに置き場がないから、あなたのうちを倉庫代わりにしているだ」というようなことをうっかり言ってしまったのがまずかった)、「漫画も作品ごとに整理せにゃ」と思ったのだ。当たり前の話だが。

それで、日曜日は本をあれこれやっていたのだが、あるていどは漫画をまとめることはできたものの、その他の本の方はぐちゃぐちゃのまま、また押し入れに積み重ねられることになってしまった。せめて仏教関係、SF、その他一般小説、くらいに分けたいのだが、もう無茶苦茶である。エロ漫画とBL本にサンドイッチされた『教行信証』といった具合である。ナムアミダブツ!

おれがいま苦戦しているのは中村元の『龍樹』という本で、こりゃあ難しいで、あかんで、というところである。とはいえ、なんとか読み切ろうとは思っている。で、あまり本題とは関係ないのだけれど、古代インドの仏教関連の人名など見ていて思い浮かんでしまうのが、オウム真理教ホーリーネームなのである。どうしてもそれが思い浮かぶ。もちろん、オウムが勝手に持ってきて使ったものなのだけれど、どうにも悪いイメージが残る。あるいは、あの事件の当時、真剣に古代仏教研究の道に進もうとした人がいて、自分の中での迷いや周囲の反対からやめてしまった、などという話もあるかもしれない。ひょっとしたら、古代仏教研究の世界にとっても大きな損害が出たかもしれない。まあ、古代仏教研究の世界が大躍進していたとしても、この社会になにか大きな影響があったとは思えない。少なくともオウム真理教が与えた悪い影響を覆すことはできなかっただろう。

きれいにするより、汚すほうが簡単にできてしまう。エントロピーの法則とは言わないが、世の中そんなものだろう。作るより壊すほうが簡単だ。なにかをするより、しないほうが簡単だ。しない言い訳を考えるほうが簡単だ。そういうおれは職場でだらだらとこんなものを打ちながら「今日は帰りが遅くなりそうだし、雨も降ってきそうだし、ジョギングはやめておくか」という言い訳を作っているわけだ。人間とはしょうもないものだ。いや、しょうもない人間もいたものだ、というのが確かか。

タスカニー、といってどれだけの人に通じるかわからないが、ラジオ『あどりぶ』で巽悠衣子さんが「たしかに」という相槌をうつのに「タスカニ」と訛っているというネタ(ないし事実)がある。それで、その「あどりぶ」の相方のへごちんが別のラジオ(新谷良子さんとやっているNECのパソコンのやつ)に出ていて、やけに「たしかに」と相槌を打つ回数が多いような気がしてならなかった。が、注意して声優さんらのラジオを聴いていると「たしかに」という相槌が多いような気がしてならないのである。おれは、日常生活でそんなに「たしかに」と言うだろうか。でも、ラジオの彼女らは言っている。おれは少し「たしかに」ノイローゼになりそうである。

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 ところで、検索するとタスカニーというオードトワレがあるようだ。どんな香りがするのだろうか。でも、おれは夏になるといかにも夏っぽく安っぽいジバンシーのウルトラマリンを使うんだ。もう夏だ。その前に梅雨だけれども。あーあ、梅雨は雨が降って走れないなー。ジョギングもロードバイクもお預けだなー。残念だな―。なんてなーってなー。言い訳を一つ考えることに一つ徳を積むことができれば、今ごろおれはチベットの奥地だぜ、まったく。