スタニスワフ・レム『ソラリス』、あるいは現在がSF作品を超えたとき僕の考えること

 スタニスワフってなんかもぞもぞする名前だと思う。スタニスラフスキーほど(イヴァン・イリイチ『コンヴィヴィアリティのための道具』/世界のあらゆる人々を脅かしている5つの側面編 - 関内関外日記(跡地))じゃないけれど、スタニスワフもけっこうむずかしい感じがする。そんな感じがするから、きっと中身も難渋なしろものに違いないって思って、『ソラリス』を避けて通ってきたわけ。
 けど、『ソラリス』くらい読んでおかなきゃなあって思って、えいやって読んでみた。それで、やっぱり小難しい感じがして、引きこまれて一気に読んだってこともなく、じわじわ読み進めてようやくという感じで読み終えた。
 ジャンルでいえば未知とのコンタクトものってことになるんだろうと思う。それで相手が惑星というか海というかなんというか得体のしれないもので、結局なんというか得体のしれんものとはコミュニケーションでけへんよって具合なんだ。どっかの宇宙に生まれた何者かが、人間と同じような構造や理路あるわけないじゃん、もう、それはもう、まったく違ったもんなんやと、そうおっしゃるような、そんな話なんだ。
 それで、あらん限りの想像力で惑星ソラリスを描写し、惑星ソラリスをめぐる研究者たちの学説を紹介し、それでいて主人公たちの身の回りにはなにやらホラーめいたことが起こり……と。スペース・ゴシック・ホラー・ハードSF? みたいな。
 でも、なんだね、あれだね、翻訳が古くなったから新しいバージョンということで、それはもう歓迎なんだけど、やっぱりね、現実がSFの技術を追い越す問題みたいなのがね、やっぱり感じられたりね。たとえば図書室が出てくる、紙の本が出てくる、これをおれは脳内でどう処理すればいいのかというね。
 べつに『ソラリス』に限った話じゃないけれど、人類が今現在の水準をはるかに超えた宇宙旅行が可能になってるのに、紙の本かよという不自然さというのが出てきてしまう。もちろん「宇宙航行は進歩したけど、本については電子書籍が発明されなかった世界なんだよ」と解釈するのがストレートなんだろうけど、やっぱりなんかねじれがある。そこで、勝手に脳内で電子書籍に置き換えて整合性をとろうとしたりする。でも、本の重さの描写が出てくると、その脳内妄想は破綻してしまう。
 じゃあなんだ、翻訳が勝手に「図書室で本を読む」ことをサイバースペース上でデータにアクセスする、に書き換えていいのか? ということになる。けど、勝手にやったらあかんやろうし、原著者死んでたらどうします? あるいは、「そんな技術あるんなら、ストーリー上でこれこれこうすると何の問題もなくなるぜ」みたいな、そう、たとえば携帯電話一つあったら問題なかったみたいな事態が起こるかもしれない(『ソラリス』の話じゃないけど)。そうなったら、じゃあ主人公が携帯電話を持っていない理由を書き加えなきゃいけない……とかやってったら、別作品になっちゃうわな。まあ、古典SFを読むときには古典SFを読む脳を鍛えなきゃいかんということか。
 そういう意味では、あれだ、映画化なんかはわりと簡単にそのあたりクリアしちゃうかなってところはある。むしろそこが映画の技ってやつかもしれない。P.K.ディック原作だってバンバン作れる。でも、『ソラリス』の映画については、原作者お嫌いなようで、まあ、あの要素をメーンに据えたら別物かなという感じはする。今のところ観ようという気はしない。あと、しんどいのでレムもべつのを読もうとか思わない。以上。