村上春樹・安西水丸『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』を読む

村上朝日堂はいかにして鍛えられたか (新潮文庫)

村上朝日堂はいかにして鍛えられたか (新潮文庫)

 期間限定サイト「村上さんのところ」(http://www.welluneednt.com/)の更新が毎日楽しみな毎日なのである。とはいえ、おれは『ねじまき鳥クロニクル』を最後に長編を読んでいないし、紀行文のようなものは読んでも、軽いエッセイ、すなわち「村上朝日堂シリーズ」を読んだ覚えがないのである。これはちょっと不思議な話で、実家があるころは週刊朝日週刊文春週刊新潮と三つも週刊誌をとっていて、当然朝日も読んでいたはずだからだ。ただ、やはりおれがそれらを読み始めた小学生の後半から中学生にかけて何がものをいうかと言えば、いかに面白いエッセイが載っているかんてことより、どれだけエロいかということだった。その点において週刊文春が(ヘアヌードをやめてしまうまで)頭ひとつ抜けていた。淑女の雑誌からだってある。無敵だ。そういう点で朝日への関心度が低くなっていた可能性は否めない。とはいえ、村上春樹の軽い(?)文章を読んだことがないかといえば、そうでもないのだけれど。
 して、この本である。図書館の本棚で『約束された場所で』なんかと一緒に並んでいたこの文庫本である。「いかにして鍛えられたか」という名がふさわしいのかふさわしくないのかわからないが、それはもう大勢の人によって読まれたであろう形跡がある。はっきりいってくたびれきっている。村上主義者というのは多いものだな、と思う。
 が、しかしなんというかこの日本はそれだけ村上春樹好きが多いわりには、村上春樹のような……感じにはなってねえなあと思う。やっぱり本を読む人間というのもそう多いわけでもなく、いくら世界のムラカミといえども、実際のところ社会に与える影響なんていうの微々たるものなのかしら、などと思わないでもなく。
 いくつか気になったところを引用する。

……たとえばスピーカーに即していえば、聴く人に「ああ、これは素晴らしい音だな」と思わせるのは二級品、まず「ああ、これは素晴らしい音楽だなあ」と思わせるのが本当の一級品だ。僕は翻訳をやればやるほど、ますます痛切にそう感じるようになった。

 翻訳についての話だが、スピーカーのたとえの方に「そういういものか」と思った。ソニーの例のSDカードも自己主張が強すぎるのではないか、というのは製品そのものとその宣伝についてであって、音のことは知らないけれど。

 (春)湘南はけっこうワイルドですよ。藤沢の東進ハイスクールという予備校の近くには「45°」というラブホテルがあるんだそうです。これはおそらく角度ですね。僕も昔藤沢に住んでいたけれど、まったくなにを考えているんだか、ですね。

 これは珍名ラブホテルについての話(この本のそこそこの割合を占めている)からである。思わず「おっ」と思ってしまった。おれの古い日記から引用する。

三浦和義といえば、藤沢近くのラブホのプロデュースかなにかやっていたと思う。クリエーション45、だったか。藤沢駅界隈のラブホというと、そこかイリスくらいしかなかった。こんな風にラブホという言葉を使うと、それ目当てに検索にくる人がいる。もしも車であれば134沿いに行きなさい。電車だ、この二つは嫌だ、というなら、大船駅で降りて城を目指しなさい。あのあたりの男の子は、いつだって城を目指したのですよ。

三浦和義について考えてみる - 関内関外日記(跡地)

 知っているラブホじゃないですか。というか、おれが「45°」を利用したことがあるか、「城」に行ったことがあるかといえば、ゴニョゴニョ、ふふふ。まさか村上春樹の本で名前を見ることになるとは思わなかった。
 あとはなんだろうか、滅多にないという一目惚れのようななにかについて書かれた「ハンブルクの電撃的邂逅」というのがよかった。というか、自分の体験が二つ思い起こされた。「ウォークマンを悪く言うわけじゃないですか」では、二十一世紀の日本が進むべき道は「原子力発電に代わる安全でクリーンなエネルギー源を開発現実化することである」と言ってるあたりは慧眼だな、とか。それと、レイモンド・カーヴァーを訳すときの一人称についてとか、どこかの高級料理店に送ろうとしてやめた実際の苦情の手紙(これは抗議文のお手本になる)とか、いろいろ読みどころは多かった。こういう本でも主義者を増やしていたのか、などと思う。しかし、なんだろうか、「村上春樹」と検索して出てくる顔の、故・安西水丸氏の書いた顔に似ていることといったらない。そうだ、おれはこのコンビの本をぜんぜん読んでいない。手当たり次第いってみようか。おしまい。