『小説の読み方、書き方、訳し方』(柴田元幸・高橋源一郎)を読む

 

新型コロナウイルスの流行とともにおれの読書量は減った。減ったどころじゃなく八割減とかそういうレベルだ。居酒屋か旅館か、というレベルだ。なぜアウトドアではなくインドアの読書が減ったのか。図書館が閉鎖されたからだ。ここ数年のおれの読書習慣とは、図書館とともにあった。なぜか。貧乏だから本を買う金がなく、貧乏だから本の置き場がないからだ。

しかし、いよいよ本を買った。正直にいえば古本だ。おれは圧力鍋のレシピ本がほしくなった。ネットオフで探した。あった。三冊買えば送料無料になる。単行本としては持っていなかった田村隆一の『1999』があったので二冊目。さて、三冊目。高橋源一郎で検索して出てきたこれを買って三冊。

高橋源一郎とおれ。おれと高橋源一郎。これについてはさんざん語ってきたので適当に検索してください。おれにとって最大の小説家です。

では、柴田元幸とおれ。おれと柴田元幸。これについては、どうだったか。ポール・オースターの翻訳を読んだ。すばらしいチャールズ・ブコウスキーの『パルプ』も読んだ。

高橋 ……当人を前にして恥ずかしいのですが、僕は、柴田さんの、チャールズ・ブコウスキーの『パルプ』の翻訳は、日本翻訳史上の最高傑作と思います。あの作品の、柴田訳のブコウスキーは僕の文章の理想像です。

p.52

あと、こんなん。

柴田 ……ブコウスキーを訳していて、「ああいう汚い世界を書いているから、スラングをいっぱい使っているんでしょう」と訊かれることがあるんですけど、考えてみると、ブコウスキーにはほとんどスラングが出てこないんですね。

高橋 たしかにないですね。すごくわかりやすい。

柴田 わかりやすいですね。スラングというのは仲間内の通り言葉で、特定の小さい閉じた共同体のなかでしか使われないものですよね。ブコウスキーはどこの共同体にも属さないからスラングは使わない。友だちがいないとスラングって要らないんですよね(笑)。

p.163

ブコウスキーに「ともだちがいない!」というのは、自伝的小説を読めばいいと思う。『くそったれ、少年時代』とか。

 

くそったれ!少年時代 (河出文庫)

くそったれ!少年時代 (河出文庫)

 

 

あと、おれはあまりはまらなかったけれど、スティーヴン・ミルハウザーや、スチュアート・ダイベックもちょっと読んだことがあると思う。村上春樹との共著も読んだ。いずれにせよ柴田元幸、今現在、小説、あるいはアメリカの小説を日本語で読むとなると、避けては通れない存在だろう。たぶん。たくさん翻訳している。

柴田 ……たくさんやると、一つ一つは雑にやってるんだろうなと思われたり、「やっぱり下訳とか使うわけですか」って言われたりするとすごくむかつきますね。「なんで他人に自分に代わって遊んでもらわなきゃいけないのか」ってね。村上春樹さんも言ってますけど、「何で一番楽しい部分を他人にやってもらうのか理解できないって」。

 P.22

おれは村上春樹の翻訳も好きで、レイモンド・カーヴァーとかなんか読んでいると思う(本書には村上訳カーヴァーについて語り合ってる部分もある)。高橋源一郎の翻訳というとジェイ・マキナニーくらいしか思いつかないが、あんまりしていないのでそういうことになる。

 

 

柴田 村上春樹が出てきた時に、カート・ヴォネガットに似ているなと、僕は思ったんですね。その直後に高橋さんがデビューした時、村上春樹ヴォネガットならこの人はドナルド・バーセルミだなと思いました。

 p.41

そしておれは残念ながらバーセルミを読んだことがない。いずれ図書館が開いたらバーセルミを読みたいと思う。

高橋 ……『さようなら、ギャングたち』を書き始めた頃には、もうすでに断片の集積で書こうとしていました。断片を集めて長大な作品を作るのは現代詩に特徴的なやり方だったので、それならできるだろう、と思っていたのです。だから、ブローティガンバーセルミを読んで、「あっ、やっぱりやってる作家がいるじゃないか」という思いは強かったのです。

p.43

おれは一時期、ここに名前の出ているブローティガンにはまった。検索すれば出てくると思う。

柴田 ……ちゃんとリズムを考えて翻訳しているのは、現代アメリカだと藤本和子だけかなって思ったんです。イギリス小説でも、昔の中野好夫とか朱牟田夏雄とかだと、リズムというよりは「節」っていう感じなんですが、でも節はちゃんとあるんです。現代小説の翻訳は節もリズムもあまり感じられなくて、「リズムなしで演奏されてもなぁ」っていう、それが一番の違和感です。

高橋 僕も藤本さんのブローティガンの翻訳には驚愕しました。翻訳って、当然、原文は尊重されなければいけないですよね。

柴田 ええ。

高橋 でもだからといって原文に似すぎてもいけないし、直訳調すぎてもだめ。そして正解はもちろんないから、「これはきっと完璧ではないな」と思うのが翻訳された小説を読む場合の基本スタンスだったんですけど、藤本さんの訳文を読んだ時には「これ完璧じゃないか」って思ったんです。もう句点の打ち方も、すべてこれ以外ありえない、というぐらいに磨き上げられた感じがあって、そんなことが翻訳でできるということに本当にびっくりしたんです。

柴田 まさに僕もそうですね。

p87.88

そんでもって、本書には両人の「読むべき海外小説30冊」だとか60冊とか、さらに「海外に紹介したいニッポンの小説」のリストが出てくるのであるが、とうぜんおれはそんなに本を読んでいないので、これは重宝する。これだけでも一読の価値はあろう。

一方で、「おれ、なーんか読めないなよなー」という作家もいる。

柴田 アメリカ文学者として自殺的なことを言いますけれど(笑)、この対談が決まったときに、『重力の虹』を読んでいないのはまずいなあと。

p.142

 

 

ピンチョン。おれ、ピンチョンちょっと挑んでみようかと思ったけど、まったくだめ。まったくわからんし、読み進められない。おれは単なる高卒の底辺労働者なのでピンチョンを読んでないことが自殺的なこととは言えないけれど、まあ柴田元幸も読んでねえなら、いいか! エヘ! ということになる。

と、なにやら自分がちょっとばかり知っている領域の話ばかりしてしまったが、本書ではアメリカン・ウェイ・オブ・ライフについてや、小説家がなぜ「先生」と呼ばれたのか、あるいは呼ばれなくなったのか、など、文学的なお話が展開されているので、そのあたりはちゃんとチェックしてくれよな。

最後に。

高橋 書けない代表として言うと実は僕も詩が書けないんです。僕の小説には詩に近いところがあると言われたりして、詩人の友達には、「何で君が詩を書けないのか全然わからない。あのままでいいんだよ」って言われる。でも、ほんとうに全然書けない。詩だと意識し出した途端、想像力がまったく働かなくなるんです。で、小説の中に登場する詩だってことにすると書けるんですね。ある詩人の生涯を書けって言われて、彼が書いた詩であれば平気で書ける。自分でも謎なんですよ。小説だとあまり考えないでとりあえず行けるけど、詩だと考えちゃうんですよね。

p.18

これについては、おれが高橋源一郎の小説を読んでいたときだったろうか、父が「世の中には詩のような小説と、小説のような詩がある」と言った。おれはなぜかその言葉が深く印象に残っている。おれは高橋源一郎を読んだので、詩のような小説を読んだことにはなろうが、小説のような詩とはだれのどのような作品であろうか、まだ出会ったことがない。

そして、小説について。

柴田 たとえば芝居を見ていて、後ろに背景があって樹木があるんだけれども、実はベニヤ板なわけですね。それを樹木でなくベニヤ板だと、つい認識してしまう。

 

高橋 そうです。「全部舞台の袖にいる演出家が演出したものじゃないか」という感じです。芝居の中身よりそういうことが気になってしまう。この世界はコードでできているわけだから、そういう人間にとってそのことを抜きにして何かを書くというのは無理なんですね。その場合、選択肢は三つあります。

 

(1)わかっているけれども面倒臭いからコード通りに書く。

(2)コードのあるものは書けないので書かない。

(3)「コードがあるよ」と書く。

 

この三つしかないんです。そして、その選択は、どれが正しくて、どれが間違っているかわからないのです。僕は「コードがあるよ」と書くのが高度なテクニックだとは思いません。ただ、「これはコードじゃないか」と指摘する作品が、もしほかにほとんどないとしたら、誰かががそれをやらないと気持ち悪いだろう、とは思うんですね。

p.44,45

ああ、なんか本が読みてえな。小説読みてえな。そんなことを思った。今のところはそんだけだ。以上。

 

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