おれの思春期に大きな影響を与えた作家というのは何人かいるが高橋源一郎はそのうちの一人である。父親の本棚に『虹の彼方に』かなにかがあって、ふと手にとって魅了されたのだ。そしてすぐに手を出した『さようなら、ギャングたち』に圧倒されてしまった。ずっと後になって読んだ『ジョン・レノン対火星人』にもぶっ倒された。高橋源一郎には叩きのめされてばかりいる。
とはいえ、思想人、言論人としての高橋源一郎というと、小説家としての高橋源一郎に比べると、おれにとってはどうもつまらない、といってはなんだけれども、そういうところがある。それだけおれにとって高橋源一郎の小説は衝撃だったのだ。
して、本書である。Amazonの紹介文にはこうある。
作家は、さまざまな場所を訪ね歩いた。ダウン症の子どもたちのアトリエ。身体障害者だけの劇団。愛の対象となる人形を作る工房。なるべく電気を使わない生活のために発明をする人。クラスも試験も宿題もない学校。すっかりさま変わりした故郷。死にゆく子どもたちのためのホスピス…。足を運び、話を聞き、作家は考える。「弱さ」とは何か。生きるという営みの中に何が起きているのか。文学と社会、ことばと行動の関わりを深く考え続けてきた著者による、はじめてのルポルタージュ。
「愛の対象となる人形を作る工房」とはオリエント工業のことである。いきなりそこに食いついてもなんだけれども、ほかはなにやらなにかそういう感じの場が並んでいる。ある種の人にはいいようのない忌避感、嫌悪感をもたらす可能性すらある。というか、おれも「そういう話は、まあべつに」と思うような人間ではある。
が、おれが高橋源一郎の小説に感じてきた、ベリ・ベリ・ナイスな感性、それはひょっとするとこれらの場が持つような、これらの場に属する人たちが持つような弱さ……松岡正剛的に言えば、決して否定的な意味ばかりでないフラジャイルな感覚に通じてるのかもしれないな、とも思えてくる。
「でら~と」で、重症心身障害を持って生まれた赤ん坊を抱かせていただいた。赤ん坊は、わたしの腕の中にいて、たじろぐほど強い視線でわたしを見つめていた。その時、わたしが感じたことは、どう書いても、どれも嘘であるように思える。
ただ、このことだけはいえるように思う。わたしが生涯を捧げようとしている「文学」というものが何に似ているか、と訊ねられたら、わたしは、あの時、抱いていた赤ん坊のことを思い出すのである。
「あとがき」
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