ロバート・クーヴァー『ユニヴァーサル野球協会』を読む

ユニヴァーサル野球協会 (白水Uブックス)

ユニヴァーサル野球協会 (白水Uブックス)

 おれが小学校低学年のころだったろうか。弟とガン消しのトントン相撲で遊んでいたときのことだ。おれは「ちゃんと番付表を作って勝敗を記録したらすごく面白いんじゃないか」と思い、らくがき帳に仮の番付表を作り、モビルスーツの名前を書き……それに夢中になって、弟はどこかへ行ってしまった。結局、そのガン消しトントン相撲協会は日の目を見なかった。
 『ユニヴァーサル野球協会』はそんな話である。
 野球と言っても、バットもボールも出てこない。実在のスタジアムも、野球選手も出てこない。すべては主人公ヘンリーがサイコロを振って進行させる机上の野球である。事細かに決められた三つのサイコロの出目によるプレイの結果、緻密に記録されていく選手たちの記録、そして、それを取り巻くエピソード……。
 本の紹介には「現代の神話を創造するポストモダン野球小説」などとあるが、おれにはよくわからない。おれには幼い日の遊び、暇を持て余した子供の遊びへの回帰とうつった。幼い日、といったが、本作の主人公は56歳くらいの会計事務所のサラリーマンみたいな人間ではあるが。
 むろん、解説にあるように、主人公の名前がヤハウェアナグラムであるとか、ある選手の名前がジーザス・クライストであるとか、そんな読み方もできるだろう。気まぐれな創造主と、かれの思い通りにならない世界の構図。だが、これも解説にあるように、そんなのはどうでもいい。主人公が「ユニヴァーサル野球協会」のペナントレースに熱中し、現実とそれとの区別などなくなって、溶けていくようすがたまらなくおもしろいのだ。そういう意味では前傾型の小説かもしれない。
 しかしまあ、主人公もややこの野球世界に飽きが来ていた。と、そこに凄い若手ピッチャーが現れる。父親も名選手だった。兄はそれほど活躍できなかった。しかし、かれはルーキーにして完全試合を達成する。このときの主人公の悦び。が、ほどなくしてそのルーキー、今の日本野球で言えば大谷翔平のような彼を襲う悲劇……。どうしようもないサイコロの目。荒れる実生活。たまらん。
 というように、ともかく架空のリーグがあって、架空のゲームがあって、それを眺める創造主になる。その面白さ。こういうものがおればかりでなく、海の向こうのだれかにも存在していたのだし、それがまた海を渡ってこちらでも支持があったというところがいい。空想世界で遊べるのはおれだけではなかったのだ。架空の創造主になりきれるのはおれだけではなかったのだ。それだけでも読む価値があるといっていい。少なくともおれはそうだった。実際にスタジアムに足を運ぶより、選手名鑑を見てるほうが楽しいおれにとっては……。

 ヘンリーは人名にはいつも気を使った。人名こそが、一種独特な成功と失敗の感覚、一種独特な感情を野球ゲームにもたらすのだ。サイコロや各一覧表や他の小道具はドラマの仕掛けにすぎず、ドラマそのものになり得ない。それ故に、永続性という重みを一手に引き受けられるような名前を選ばねばならない。

 これなんかも、我が意を得たり、というところだ。高校、大学、ニートとハマりこんだダビスタウイニングポストの世界。そこで生み出される架空の馬の架空の名前。その名付けがどれだけ楽しかったことか。おれは最強馬作りなんかよりも、より良い馬名というものを追い求めていた。澁澤龍彦の本などを読んでは、かっこよさげな外来語を心にとどめ、これという馬が生まれたときに名づけたりしたものだ。

 「ミッチ・ポーターか」ヘンリーは傘を折り畳んで濡れなくてもいい雨に濡れながら、ミッチ・ポーターという音の響きに聞き入っていた。外野手になるかな。それとも名三塁手か。「いずれ、試しにやってみよう。じゃ、おやすみ、ルー」。

 こういう感覚だ。これが果たしてどれだけの人間にわかるのか。おれには想像がつかない。大多数の人間が感じ入るところがあるかもしれない一方で、少数派かもしれないとも思う。あるいは、男にはそういうところがあって、女性にはわかりにくいのかもしれない、などと男のおれは思ったりもする。
 主人公は会社でひそかに似たような競馬ゲームを抽斗の中にしまっていたりもする。

 かれは抽出を開け虫眼鏡を探そうとした。そのとき偶然マニラ紙の書類ばさみの中に、競馬ゲームを見つけた。この前ゲームをやったときは、ラムショーンという三歳馬が一大旋風を巻き起こしたものだった。他にもマッフィンやサドルポイント、アニーオークリーがいた。書類ばさみの中身を素早くめくるうちに、ヘンリーは少し目が覚めてきた。ジャシント・エイブリルってやつはUBA所属の野球選手になろうとして挫折したんだが、それがいまじゃ歴代有数の名騎手の仲間入りとはな。

 これである。この感覚である。これがわかる人間が少なくともおれ以外にもいる。それは作者のロバート・クーヴァーか登場人物のヘンリー・ウォーかはわからない。ただ、この世にこういう感覚がある。創造主の感覚があって、思い通りにならないシミュレートの世界があって、名付けのよろこびがある。わかる人にはこの小説はものすごくわかるだろうし、わからない人にはさっぱりわからないだろう。でも、分かる人、思い出せる人は少なくないんじゃないかと、おれは思ったりもする。