『異形の心的現象 統合失調症と文学の表現世界』を読む

異形の心的現象―統合失調症と文学の表現世界

異形の心的現象―統合失調症と文学の表現世界

 吉本隆明と森山公夫の対談集である。

 もうひとつは、僕が疑問に思っていて、はっきり解決ができていないことがあります。例えば「あなたが前に出版したものをこういうふうに出すことに決まりました」と。要するに、僕が何か言ったわけでもなんでもないのに、「決まりました」という話になるのです。それで進行してしまうわけです。それはすごい変貌の仕方ですよ。今までは考えられないことです。ものすごく長い間付き合ってきて、お互い十分知っている親しい人からそういう要素が出てきて、これにも驚いているところです。

 のっけから心的現象とも統合失調症とも関係ない話だが、晩年に乱発された感じの吉本隆明本というのはそういうものかと、本人も自覚しているのかと思ったりした。本書がそうかどうかは自分の目で確かめて見て欲しい。
 森山公夫のスタンスはこうだ。

……脳でセロトニンが出れば気分がよくなるとか、ということは部分的には当たるかもしれないけど、人間の精神とはもっと広大かつ深甚なものだと思います。

 これはこまった。おれは脳内にセロトニンとかノルアドレナリンとかがパーッと花開けば、人生花開くのだと、そこに縋りたいからだ。その考えは、もはや多方面から否定され、古いものになっているとしては。

 そう思いますね。

 と吉本隆明に言われても、嫌なんだもん。
 しかしなんだね、新型うつ病とかそういうもの。森山氏の発言。

 うつ病が増えた理由として、一つは軽症化が着目されています。昔はうつ病というとひどく自分を責める、本当に狂乱の状態を見ていたんですが、一九七〇〜一九八〇年代から軽いうつ病が出てきて、非常に多くなってきた。

 このあたり、「軽いけど治りにくい」うつ病。わりと最近(2000年代?)とか思っていたら、70年代というから、そういうものかと。
 話は飛んで(ああ、後ろに貼った付箋から引用してるだけだから、飛ぶので)。

 つまり、僕は実感としてはあるのですが、例えば、親子というものを考える場合に、一代だけの親子関係を考えると、生まれてきた子どもには何の責任もないし、産んでくれと言った覚えもない、ということになります。

 これは吉本隆明。おれはおれの父親がその父親に「産んでくれてと頼んだ覚えはない!」と半狂乱で叫んでいるのを目の当たりにしたことがあるが、バックに吉本隆明があったんじゃないかと思ったりした。

 疎外という言い方をするならば、「原生的疎外」には、全く自分の責任ではない、と言える言い方と、自分のもの(原生的な意志)は何もない、という言い方の両方があって、それは心身ともに何代もわたって遡っていくと、自分の責任だよ、と、と同じことなのだ、ということを言えるということを考えないといけないのではないかと思うのですね。

 ……となると、まるでわからんが。

 第三次産業で働く人が働く人の60〜70%を占めているとうことは、精神の病いや異常が病気全体のうち、60〜70%を占めているだろうと、大雑把に理解するわけです。

 というと、これは製造業(工業)での個人の作業能率とは別個の労働になった現代をいいあらわしてるなぁとは思うが。とはいえ、その第三次産業もデータ化され、数値化され、労働者に意識させようとするところもあるんじゃないかと思うのだが、さて。ほら、野球ですら打率とか大雑把なデータじゃなく、守備の時に動いた距離とか数値化されてるでしょ。うん。

 この頃、自分でも「怪しげなこと」に関心を持つようになったとうことが分かりますね。何が怪しげなのか、というのはよく分からないのですが、嘘でもないわけです。そういうことは全く問題にならないと考える人もいるでしょうけれど、僕は「怪しげなこと」というのは、比喩でなくて本当にそういうことがあるのだと言えば、唯物論的かつ科学的と現在思われていることから逸脱してしまうわけですが、「比喩として怪しげなこと」というのはあるのではないか、と考えたりするようになりましたね。

 そりゃまあ、獄中の麻原彰晃からテレパシーみたいなの送られてきた、とかどっかで言ってたりしたし、なあ。
 あー、ええと、なんだ、なんかまとまりねえけど、個人的には(夏目漱石とかの基礎知識がないおれにとっては)、なんかまあまとまりのない本を読んだというか、思想家と精神科医ががっぷり四つに組んだという感じはしなかったなあというあたりだろうか。吉本信者の森山先生が話を聞いた、というと言い過ぎかもしれんが、そんなところで。