おれが医者に行って金を払い、おれが薬局に行って金を払っているのは、おれが自殺しないようにするためであり、そのうえでおれができるだけ平穏に生きられるようにするためだ。
それに意味あるのか?
おれに生きる理由があるのか? まるで思いつかない。べつに人生をともにしている家族がいるわけでもない。だれかに仕事で必要とされているわけでもない(必要であれば生きるに必要な賃金が支払われることだろう)。おれにはなんの目的もないし、理由がない。「生きるのに理由なんて必要ない」というのならそうなのだろう。でも、そうだったらべつに死ぬ理由がなかったとしても同じことだよな。勝手に達観してろ。
というわけで、どうもおれは死んだほうがいいということになる。もう、朝起きるのにうんざりしてしまっているし、労働にもうんざりしてしまっているし、ろくに役に立たない自分というもの、必要とされることのない自分にもうんざりしてしまっているし、疲れて、不安に支配され、それを跳ね返す気力も体力もなく、将来の希望もなく、今の楽しみもなく、すがりつくほどすばらしい過去もなかった。そういうものは生きていても死んでいてもかわりないのじゃないか。
だったら、とっとと確実な方法。カットでいえば頸部へのカットで死んでしまえばいい。それなのに生きているのはなんだろう。あるていど、生というそのものに勢いがあって、慣性の法則のように滑り続けているのだろう。ただ、摩擦はないものとするわけじゃないので、やがて止まる。肉体の限界まで生きるやつもいれば、途中で辞めてしまうやつもいるだろう。おれは後者になるだろう。この世はザラザラしているから。それに向かい風も吹いている。おれの口座から金はなくなるばかりだ。いまよりもっと惨めになる。惨めな思いをする。他人の、役立たずを見下し、憎み、嫌悪する感情はよりいっそう大きく降り注がれる。おれはその視線を受けたくはない。酒で脳を破壊したいが、なかなか脳は破壊されない。
確実な方法を用意しておくべきだ。確実で、苦痛をあまり伴わない方法だ。おれに残された「するべきこと」はその用意くらいだ。まわりに迷惑がかかろうが、なんだろうがどうでもいい。おれは楽になりたい。楽になるために楽に死にたい。