『パスキンの女たち』のハードカバーがわりと新しい本の棚にあったので、何冊か虫明亜呂無を読んだ。決してスポーツものだけの人ではないと言われるかもしれないが、やはりこの人の書くスポーツものは突出しているように思えてならない。
とはいえ、おれは虫明亜呂無のことはよく知らない。寺山修司との競馬対談本と、スポーツアンソロジーに収録された短編くらいしか読んだことがない。父親からはよく「競馬をやるなら虫明亜呂無を読め」といわれたものだったが、父は競馬をやらなかった。
「俺は若い時、電気溶接工だった。電気溶接というのを知ってるか。お前たちが街の自動車工場で、青い火散らしているのを見ているのは違うぜ。あれはガス溶接さ。あれは素人でもできるんだ。俺のはれっきとした電気溶接さ。この稼業は辛かったぜ。なんていうのかね、箱ひとつ満足に溶接ができるようになるまでは、そりゃ、いくつ失敗して、箱を穴だらけにしたことか。そうだ、俺は貧しい家に育ったから、金も、名誉も欲しいというわけだ。見てくれ、この体。だてに筋肉がついてるんじゃない。お前たちのように、学校のグラウンドで身についた筋肉じゃないんだ。おれのは生活が否応なしにつけさせてくれた筋肉なんだ。そんな俺にむかって、マラソンで勝負をしようというのが無理な話なのさ。まあ、ここは、俺が思うように走ってみせるから、後ついて来れるものは、ついて来てみるんだな。最後まで、可愛がってやるぜ」
それから肉体すらも恥ずかしがろうと思われる肉体の淫靡な快楽体験について、快楽ということの意味もわからずに、肉体が無理してひたすら快楽として受けとろうとしていた体験について、快楽の余韻と、快楽の回顧について、選手たちのむきだしの肌や、手足の形や容貌が露骨に、声高にたがいに、自己主張をはじめだす。肉体はここで公然とした挑戦の武器となる。
「海の中道」
マラソンの描写がこれだぜ。いろんな選手の内面の声が、こんな調子で羅列されてんだぜ。
僕は、登山を愛好したために自分の人生をフイにしてしまった男や女たちを幾人も知っている。彼らが人生を投げだしてしまったのも当然のなりゆきではないだろうか。登山は勇気と忍耐と体力と意志の強さを要求されながら、どこか淫靡で、官能的で、頽廃のにおいが濃く漂っている人生の遊びである。ちょうど、毒を持たない芸術こそがこの世にありえないように、登山もまた毒の要素にはこと欠かない。が、だからこそ、多くの男や、ごく少数の女たちが、毒に魅せられ、悲惨で、破滅的な人生を送らねばならなくなっていく場合も生じるのである。そしてそこに、登山の偉大さがある。
「時さえ忘れて」
登山と毒、いや、スポーツと毒。どうもこのごろのスポーツは生真面目すぎるかエンターテインメントすぎるかデジタルデータ化されすぎてるかで、こんな「淫靡」な視点から語られることは少ないようにも思える。書斎のスポーツだ。どこかスポーツ界の澁澤龍彦という感じもする。
中井は日本人には珍しい大型選手で、大型選手にありがちなバネの弱さがなかった。中井の回転を見た、あるスキー指導者は、
「初夏の燕のように、色気がある」
と、評したものである。
「青い旗門」
まあ、これは小説の一部であはあるにせよ、こういうスポーツ文章。まったくないとはいわない。いわないけれども、あまり見ない。
私は何をしていたか。
言えることは、ただひとつ。
いつ終わるともない空想のサッカーを、空想のラグビーを脳裡に描いては消し、描いては消しつづけていた。それだけ。それだけなのである。後にはなにもない。完全になにもない。
空想の源を涸らさぬため、私は実際の試合をみにゆく。ひたむきに、競技場に通う。ゲームをみるごとに、私の空想は絵具の塗りを濃くし、空白の部を埋め、時の経過に緻密さをくわえてゆく。その中で、人はいっそう迅速に走り、ウェイトを充分に全身にゆきわたらせ、鮮明な行動をとり、ゲームのはこびをもりあげてゆく。
「スポーツへの誘惑」
して、これである。このスポーツへのスタンスというものがすごい。いや、小説家としての矜持のようなものがある。だてに淫靡だの色気だの言ってるわけじゃない、のかどうかはわからぬが、描いては消し、なのだ。そのために、みにゆく、のだ。おれはさきほど、「このようなスポーツ文章」と書いたが、誤りだ。今、この世には虫明亜呂無がいないのだ。なんとも物足りない世界じゃないか、なあ。
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まあそれでもともかく、虫明亜呂無と言えば競馬、というところはある。直木賞候補作だったという「シャガールの馬」に出てくるダンサーズイメージという馬名は、実在馬から借りたのか、オリジナルなのか、まあどうでもいいか。
上の過去記事を読んだら、これは読んだとある。記憶にないけど、探せば部屋のどこかから出てくる。