映画『サンドラの週末』 不要な人間がいるのではなく、人間は不要品なのだ

 

体調を崩し、休職していたサンドラ。回復し、復職する予定であったが、ある金曜日、サンドラは上司から突然解雇を告げられる。 解雇を免れる方法は、同僚16人のうち過半数が自らのボーナスを放棄することに賛成すること。 ボーナスか、サンドラか、翌週の月曜日の投票に向けて、サンドラが家族に支えられながら、週末の二日間、同僚たちにボーナスを諦めてもらうよう、説得しに回る。

サンドラの週末 - Wikipedia

「体調を崩し」は、おそらく大うつ病性障害かなにか、精神疾患だろう。その彼女に突きつけられたのが、上に引用した条件。ボーナスといってもたぶん10万円くらい。これと、一人の人間の雇用、いや、人間の居場所といっていい。それが秤にかけられる。秤にかけるのは彼女と大差ないか、あるいはそれ以下で暮している、やはり貧しい労働者である。

お前だったらどうするのだ? という問いかけがなされているのは当然だろう。おれは10万円をとるだろう。職場が一人減っても回っているのであれば、10万円がほしい。サンドラが来ても「分納でもいから、あなたが10万円くれるのなら、あなたに投票しよう」と言うだろう。人殺しの顔をするのだろう。

それにしてもなんだろう、もう人間というものは本当に不要なのだと思わずにはいられない。必要とされる人間、この世に居場所があっていいと許されている人間は、多く見積もって上位2%くらいではないだろうか。あとはもう、機械と変わらないか、機械以下の存在にすぎない。壊れたら捨てればいい。そんなものでしかない。そして、AIやらなんやらの進化によって、そのブルースは加速していく。避けられない道だ。

この世におおよその人間の居場所はない。そして、さらになくなっていく。だから、居場所も用意できないのに、それを再生産するというのは大いなる間違いにほかならない。不安定な椅子を求める椅子取りゲーム、憎悪と失望、無価値の烙印。一生とさらに半分くらい遊んで生きられる資産を残せないのであれば、子供など作るべきではない。もしもおれが一生とさらに二回くらい遊んで生きられる資産家であれば、10万円やるからやめておけ、というだろう。

まあ、そんなことみなが気づいてしまったから、おおよその先進国は少子化の傾向にあるのだろう。いろいろの補助政策をやって、どうにか保とうとしているのだろう。この国にいたっては、それをすっかり忘れていて、もう人口維持など手遅れもいいところだ。

だが、みんな気づいてしまっているのだから、よほどの政策でなければ効果などなかっただろう。いずれは一緒だ。人間は増えすぎ、生活レベルは上がりすぎ、居場所を用意することができなくなった。待っているのは蜘蛛の糸にしがみつく地獄世界。しかも、蹴落としたやつは罰を受けない超地獄。蹴落としたやつが一等賞。ようやく生きる権利=金を手に入れられる。金のない人間、平凡な人間、劣った人間はAIもBIも助けてくれないよ。なにも助けてくれないよ。ああ、どこかから死ぬガスが流れてきて街中を覆ったりしないものだろうか。失敗した生物の愚かな痕跡だけを地表に残して、ずっと太陽のまわりをまわりつづける。