やはり安楽死施設は必要なのか?

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カフェイン30gと睡眠薬100錠を入れて死にかけたお話

はてな匿名ダイアリーで自殺に失敗した話を読んだ。この話の真偽は知りようがないが、十分に有り得ることのように思える。

おれは自分の人生の終わりは自殺にほかならないと思っている。そう思って生きている。むろん、不慮の事故で死ぬ可能性もあるし、急病で急死する可能性もあるだろう。ただ、自分で死ぬのだろうという思いをポケットに入れて、生きている。マザー・テレサもよいことを言っているじゃないか。

 思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

こうやって言葉にしていれば、いつか行動になる。そう信じている。今は、生きるのも嫌だが、死ぬのも嫌だという状態で生きている。トマトが嫌いならばピーマンは好きなのだろう、という理屈は立たない。ちなみに、おれの中の宅間守濃度は気分安定薬によって抑えられている。殺傷事件は起こすまい。死のう、死のう。

しかし、実際に自殺となると「失敗」の二文字がちらつくのも確かである。上のように、死に損なって身体的に痛い目に遭うのは嫌だ。確実に死にたい。できれば、死に繋がる行為そのものが痛いのも嫌だ。最近の処方薬はよほどレアなものでなければ、あまり死なないようにつくられているようだし、首吊りは苦しくないのか? あと、飛び降りは高所恐怖症だから嫌だ。

というわけで、安楽に死にたいというのは、心身ともに健康な人間も、おれのように病んだ人間にも共通した願いだろう。あるいは、心身ともに健康・健全に生きている人間だって、病気、老衰によって自分で人生を終わらせたいと思う日もくるだろう。

そこで「失敗」というのは困るし、障害が残ったりして能動的に死ねなくなったりしたらより困る。社会の負担も大きくなる。安心、安全、確実に命を絶てる制度と方法が必要だ。そういう施設が必要だ。このところ、そう思うようになった。以前はそのような意見を見るたびに、「死ぬなら勝手に自分で死ねるのに」と思っていたが、なかなか勝手に死ぬのもむずかしいのではないかと考えを変えたということである。勝手に生きるのもむずかしいが、死ぬのもむずかしい。それについて考えなくてはならなない。人は難儀である。

生はこれ楽にあらず衆苦の集まる所。

死また楽にあらず衆憂たちまち迫る。

空海