『生命の意味論』多田富雄 その2

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◆第六章 言語の遺伝子または遺伝子の言語

言葉の成立と発展、遺伝子の誕生と進化には明らかに同じ原理が働いており、共通のルールが用いられているように思われる。p137

 アフリカから広がっていった人類の遺伝子と、人類の言語の変化と多様性を比較すると、明かな関係性が見られるという。もちろん、この章にはチョムスキーの名前が出てくるが、ここらあたりの言語の発生は、なんとなく空海を思い出す。

◆第七章 見られる自己と見る自己

生物学的にみた個体の「自己」は免疫系が決めているので、鳴き方など、キメラの行動様式を支配していた脳さえも異物として排除してしまうのである。p144

 ここでいうキメラはウズラの脳を持つニワトリ。鳴き声などがウズラのものになっても、最後は滅ぶ運命にある。ここで鵺や西洋神話のキマイラをも出してくるあたりが、単なる理系書物ではないところ。

免疫系の「自己」と「非自己」の識別は、「胸腺」によって決定されているのだ。p145

免疫から「自己」というものを定義しようとするならば、それはさまざまな「自己」でないもの、つまり「非自己」に対して行う「自己」の行動様式の総体ということになる。『免疫の意味論』で、「自己」という「存在」があるわけではなくて、「自己」という「行為」があるだけだといったのはそういうことである。p147

 それでもって、「自己」と「非自己」を決める免疫系のキーは胸腺だという。どうも、脳に関する記述を読むと脳がかゆくなるような気になるのと同じく、胸腺内部について書かれた部分を読むと、胸のあたりがぞわぞわしてくる。しかし、俺は基本的な胸腺の在処もよくわかっていない。検索すると出てきた(http://www.hi-net.ne.jp/~ma/kyousen.html)。イラストを見てもっとぞわぞわしてきた。

私の試算ではαβ鎖で十の十六乗、γδ鎖では十の十八乗という、ほとんど滑稽なほどの巨大な数となる。いうまでもなくこの数字は人間の持つ細胞の数、六十兆をはるかに越えているナンセンスな数である。T細胞の数はせいぜい十の十二乗個(一兆個)だから、現実には可能な多様性の一万分の一ほども作り出していない。P150

 胸腺において作り出されうる、あらゆる非自己に対応する受容体のバリエーション。単に「ナンセンスな数」を愛する俺には気になる記述である。それにしても、「9000千兆」という数は気軽に使っていい数字ではないものだな。それでもって、これだけの受容体は必要ないので、無能なもの、害を及ぼすものが淘汰されていき、胸腺で作られる細胞の95%は胸腺から出ることなしに死ぬという。

 人間の体を構成しているいろいろなタンパク質は、個体によって違うというわけではないのに、このHLA分子だけは、例外的に著しい多型性を持つ。個人によって少しずつ違うのである。p154

 この「HLA」とは、人間の「MHC」のことで、「DHC」は関係ない。「MHC」は‘自己の標識’というべきもので、先ほどの95%淘汰が「ネガティヴな選別」だとすると、こちらは「ポジティヴな選別」とでも言うのだろうか、意味のある細胞、自己の選択に関わるものである。六十兆ほとんどすべての細胞に、個人特有の標識となるタンパク質が存在し、それが「HLA分子」なのだ。

まだ人類というものが生まれる前から別の動物にすでに存在していた多型性を、人類が発生と同時に受け継いだということになる。
 もしそうだとすると、人類の祖先はアダムとイブというような一組の男女から生まれたのではなくて、すでにネズミなど他の哺乳動物や類人猿などに存在していた、かなりの種類のMHCの多型性を、そのままHLA引き継いだことになる。言いかえれば多種類のHLA遺伝子を引き継ぐことができるほどの多数の個体が、突然人間に進化したということになる。(中略)HLAの研究からは、交配可能な多数の私たちの祖先が、ある日突然地上に現れたという結論に達する。
 人類は初めから多様な人間の集団として生まれた。その人間の一人一人に、他の哺乳類で蓄積されてきたMHCの多様な遺伝子が受けつがれたのだ。P156

 そしてこの本で一番俺が勝手にSFチックな気分に浸れたのがこの箇所である。むろん、高卒非理系人間の勝手な妄想スタートなわけで、実際には人類の多発的な発生について科学的に考えるのが普通でしょう(多分、ロバート・J・ソウヤーの『さよならダイノサウルス』(ASIN:4150111642)でも頭に浮かんだのだ)。しかし、こうなるとアフリカのイブ女史の立場はどうなってくるのでしょうか。いろいろとわからないことは多いものです。
 このへんの話、面白そうなのでネットで拾い読み、つまみ読みしましたが、そこでこちらのサイト(http://www.hla.or.jp/hla.html)を見つけました。特定非営利活動法人「HLA研究所」。「HAL研究所」とは、ましてや「IBM」とも関係ないです。それはそうと、HLAは遥か太古に思いを寄せるものというよりも、移植医療における実に現実的なテーマなのでした。
 ……とかいいつつ、「血液型はもう古い、これからはHLA占い、HLA性格診断の時代や!」などと脳内関西人細胞が訴えかけてくる私です。

◆第八章 老化―超システムの崩壊

種によって最大寿命が決まっているという事実は、老化―死が遺伝的にプログラムされていることを示す。p171

なんと、テロメアは細胞の分裂回数を数えているらしいのである。まるで回数券である。p175

個体の老いの中には器官や細胞の老いが入り込み、細胞の老いには分子の老化が、そして分子の老化をもたらす遺伝子の変化が、というように老化には入れ子構造のように小型の老化が入り込んでいる。私は前著『老いの様式』(誠信書房、一九八七年)でそれを老いの多重構造と呼んだ。「老いの波」というように、さまざまな老いの現象が経時的あるいは立体的に押し寄せてくるのが老いである。p181

免疫超システムを作り出す重要な臓器「胸腺」は、人間のあらゆる臓器のうちで最も老化を鋭敏に映し出す臓器である。p182

再生系であれ非再生系であれ、老化とともにその要素の一部に修正不可能な欠陥が生じる。(中略)それが超システムの予備能力を超えたとき、必然的にシステムは崩壊の道を選ぶ。それは自己適応による自己生成という、機械を超えたルールを選んでしまった超システムの必然的な帰結である。生理的機能の減退などというおだやかなものではなかった。p187

 この章は「老い」の章です。冒頭に出てくるのは晩年の小野小町を描いたとして広まったという「玉造小町子壮衰書」という長篇詩の一部。俺は晩年の小野小町がそのように描かれ、小町伝説となっていたとは知らなかった。なるほど、ウィキペディアなどにも年老いて乞食になった姿が云々。知らなかった。
 でもって、「老い」。「老いの多重構造」。前著の方もいつか読んでみたいものです。「超システムの予備能力」とは、例えば百歳になっても頭脳明晰で記憶も衰えない人が居るというような話。脳のバックアップシステムはたいしたものという。しかし、いかんともしがたい。
 テロメアを回数券に例えるのはわかりやすいというかなんというか。SUICAみたいにチャージできれば不老不死かね。