私は叶えられた祈りに涙を流す~『魔法少女まどか☆マギカ』完結~

叶えられなかった祈りより、叶えられた祈りのうえにより多くの涙が流される。

 私は『魔法少女まどか☆マギカ』を見ながら、このような言葉が頭に浮んだ。間違いではなかったと思う。最終話まで見終えて、私はまどかの叶えられた祈りに涙を注ぐ。
 魔法少女まどかは魔女にならず夢や希望という概念になってしまった。言い換えれば神、女神である。『メガミマガジン』2011年5月号別冊付録において、脚本家の虚淵玄が「このアニメが明日の日本を元気づける一端を担ってくれれば、と思います」と述べたのは、けっしてブラックユーモアなどではなかったのだ。
 そう、まどかは夢や希望となってこの世界に偏在しているのである。画面の中ではない、この世界である。最終話でまどかの母の台詞がそれを指し示している。『魔法少女まどか☆マギカ』はこの世界に遍在する夢や希望、決してそれは呪いに転化しない絶対なるそれを解き明かす物語であったといってよい。それをシェキナーと呼ぶのかプレロマと呼ぶのかソフィアと呼ぶのかは知らん。グノーシス主義を題材にした物語をいくつか思い浮かべるが、グノーシスといっていいのかどうかも知らん。べつになんという別の名称もいらない、まどかのことを、彼女の友達のことを覚えていればいいのだ。
 以上のように、『魔法少女まどかマギカ』は、この世界の真なる姿を明らかにする物語だったといってもいい。この歪みや悪のある世界に夢や希望があるのであれば、その原初はなんであったのか。宇宙の歴史を、因果の最初をつきとめる話である。ただ、私たちはそれをそうと知らずに追っていたのである。これを神話と呼んでもいいだろうし、福音(EVANGELION)と読んでもいいだろう。あるいは、私にとってはSFなのである。
 同時期に放映されていた『フラクタル』の感想で、私はこのようなことを書いた。

……最後の最後でやっぱりそう思ったのは、「神さま」の姿を主人公達が見るところ。この世界のシステムを造る礎となった、昔々の神さまの姿。それは……って、言ってしまえば、普通の日本の16歳の女子高生なのだけれども。
……今のものとはまったく違っている世界、そういういわばファンタジー的なところから、女子高生への落差みたいなものがあるわけじゃん、本来は。そう、本来は。いきなりSF、ファンタジーの世界から、こちらがわの日常に飛ぶときのゾクゾク感。まあ、SFにありがちといえばありがちだけれども、それでもやっぱりなんか結構キック力あるもんだと思うの。

 残念なことに『フラクタル』はSFのキックを空振りした。『まどか』はみごとに撃ちぬいた。デザートイーグルの破壊力といっていい(ほむほむはさらにループを繰り返せば核の力すら使っただろうか?)。
 私は、このキック力を愛する。その蹴りは一人の少女を概念のようなものにしてしまうし、ときには宇宙検閲官の部屋にまで届かせてしまう。私はその無闇やたらな巨大な、遠大な、異常なまでのスケール、途方も無い大ぼらを愛する。また、愛すると同時に信じるといっていい。地上とは思い出ならずや、この世はすべて思い出であって、私の頭の中にあることであって、サイエンスであってフィクションであり、サイエンスなく、フィクションでもない。真相、真実、実相、どんな言葉が適切かわからないが、私の思議と不思議に触れるものがあって、『まどマギ』はそうであったといえる。
 さて、今回、2011年4月22日に少なからぬ人間を寝不足にさせたこの物語が届けてくれたもの、少女の祈りは、夢と希望である。ところで、私がどのような人間で、どのような空気を吸って、どのような言葉を吐いているかは、この日記をはじめとしたネットワーク上に刻みつけられた悪態をご覧になればわかろう。現実と絶望、祈りの対極といっていい。もし、私が、私の愛する物語から素直に影響を受けて変われる人間であったならば、私は私の形をしていないだろう。しかし、少しは変わることもあるかもしれない。あるいは、どこか多元宇宙の私、遠い遊星に生きる私のヴァリアントは変わったかもしれないし、それならばそれでもいい。そうでなくともよい。元は言えば同じ塵から生まれた私たちであって、P.K.ディックに言わせれば「しかしだな、そんなみじめな出だしのわりに、人間はまずまずうまくやってきたじゃないか」(『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』)といったところだろう。
 最後に私の大好きなブランキの言葉を引用して終わろう。涙となぐさめの言葉であればいいのだが。

 だが、何十億という地球の上で我々が、今はもう思い出にすぎない我々の愛する人々といつも一緒にいるのだということを知るのは、一つの慰めではないだろうか? 瓜二つの人間、何十億という瓜二つの人間の姿を借りて、我々がその幸福を永遠に味わってきたし、味わい続けるだろうと想像することもまた、別の楽しみではないだろうか? 彼らもまた明らかに我々自身なのだから。
『天体による永遠』ルイ・オーギュスト・ブランキ - 関内関外日記(跡地)

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