アランの『幸福論』を読んでいたら、アランが批判する文言として次のようなものがあった。悲観論者曰く「われわれは生きることも死ぬことも同時に増悪することができる」云々。これにおれはハッとなった。
「生きるのが辛い、早く死にたい」という人に対して「今生きてそんなことを言ってるのだから矛盾している。大げさに言っているだけで、結局は生きたいのだ」だとかいう批判は成り立たないのではないか、と。
トマトも嫌いでピーマンも嫌いということは成り立つ。トマトが食べられないなら、ピーマンは喜んで食べられるだろう物言いは成り立たない。
われわれは生も死も嫌悪できる。忌避したくなれる。生きるのも嫌、死ぬのも嫌。両立していてなんらおかしくはない。
さて、その両者を嫌悪した状態は、一般に好もしい精神状態とはいえない。楽観論者や富める者は生きることを愛せと言うだろう。ところがどうだ、幸福に寄与する脳内物質の分泌に欠け、人生を取り巻く状況が酷い中年の人間には、そんなこと不可能である。このまま社会の底辺に生きることができるならまだマシで、もっと悪くなるのは確定している。
自死か、路上か、刑務所か。
そこでせめてとばかりに現れるのが浄土へのあこがれ、死を希求する心ではなかろうか。
来世があるということ、来世はすばらしい浄土であるということ、もう再び苦の現世に輪廻しなくてもいいということ、本来ならアジア的な貧困が生みだしたはずのこの浄土教の教義が、遁世の人たちの憧れまで昇華されてゆく。この過程は悲劇的であるとともに、衆生の救済概念としては最終のところまでゆきついている。
――吉本隆明
おれが今現在困窮しているのが「アジア的な貧困」とかいうものかどうかは知らない。単なる貧乏、貧困やもしれぬ。だが、おれは半月後生きているかどうかわからないというほど希死念慮にあふれている。
死がすばらしいものであったなら。トマトが駄目でも、せめてピーマンが好物になれば。そうすれば、ピーマンの分だけ悪くないものになる。おれに幸福論があるとすれば、これである。
ちなみに、トマトとピーマンは比喩であり、おれは両方ともおいしくいただける。以上。