日比谷公園、あるいは明治のモラル

 

日比谷公園: 一〇〇年の矜持に学ぶ

日比谷公園: 一〇〇年の矜持に学ぶ

 

日本初の洋式公園といえば、山手公園ということになる。横浜に居留した西洋人たちによって作られた。横浜公園でもない、山下公園でもない、山手公園である。山手公園を知っているだろうか? 山手隧道を元町方面から抜けて、麦田の信号、その次が山手公園入口だ。そこを左折して少し登る。猫はいるが、「本当にここが国の名勝に指定されてんの?」と思うことうけあいである。

一方で、日本人の手によって作られた、官製の洋式庭園といえば日比谷公園ということになる。設計者は本多静六である。辰野金吾から無茶振りされて設計することになった。辰野金吾の案はシンメトリーを基調とする、完全な洋式庭園であった。しかし、本多静六は和魂洋才とでもいうべきか、進士五十八の表現を借りれば「幕の内弁当」のような公園にした。「洋式」ではなく、「洋風」なのだという。

その本多静六が市会での回顧を残している。

いよいよ私が市会に設計案を出すと、内外からの非難も多かった。あるとき市会で、「何故各門に扉を設けないのか、西洋ではよかろうが日本では夜間に花や木が盗まれてしまう」とだいぶ攻撃された。そのとき私は「公園の花卉を盗まれないくらいに国民の公徳が進まねば日本は亡国だ。公園は一面その公徳心を養う教育機関のひとつになるのだ。これは家の中では親の隠しておく菓子までとって食ってしまういたずら子が、一度菓子屋の小僧になると、数日にして菓子に飽きて一向に食わないのと同じで、私は公園にたくさんの花卉を植えて、国民が花に飽きて盗む気が起こらないくらいにするのだ」と答弁した。

花泥棒前提、というのがすごい。そして、本多静六の切り返しも見事だ。とはいえ、初期の日比谷公園はまだ樹木も若く、直射日光がきつかったことから「霍乱公園」などと呼ばれていたらしい。ただ、新宿百人町のつつじ園が廃園になっていくタイミングでつつじを買い上げてつつじ山を造ったり、外国から贈られてきた花木はまず日比谷公園に植えようみたいな感じで充実していく。関東大震災のときには被災者の避難所になり、いろいろの樹々も薪にされたとか、二・二六事件時には砲を設置するために大きなソテツが伐り倒されたとか、太平洋戦争時には空爆も受けたし、野菜を植えられたりもしたし、戦後はしばらくGHQに接収されたりとか、いろいろの苦労もあったのだ。

時代を巻き戻して、明治三十年代に戻る。また市会の話だ。

次に公園に池をつくると身投げの名所になって困ると非難された。それは私も心配し、石垣のすぐ下には石垣の上から直接ドブンと水平に飛び込まないように、一間ほど地面を突き出しておき、その池の周囲にも一間ほどの浅瀬をつくることにした。身投げにはこそこそ歩いて深みに行くような悠長なことではダメで、ドブンとひと思いに飛び込まなければ景気がわるいとみえて、私の設計が図に当たり、一向身投げの名所にもならずに済んだ。

「公園に池を作ると身投げの名所になる」なんてほとんどイチャモンじゃないか、と、思ったら「それは私も心配し」だ。どんだけ自殺してきたんだ日本人。そりゃまあ、ちょっと前までチョンマゲ頭で腹切りしてきたわけだが(もっとも、最初に日比谷公園の計画を出した芳野世経は洋服でもチョンマゲ頭を通したのだけれど)。ずいぶんあとになるが三原山で身投げが流行ったり、平成の世でも年間三万人死んだり、まあこれはもう自殺の国ですわ。キノも二日で出ていくと思う。

と、なんだか本多静六の孫引きばかりしたが、著者の「公園をひとつの人生に見立てた公園生活史にも広く光を」という発想は面白く思う。そこに公園自身の矜持があるというわけだ。そして、日本初の洋風官製公園であるところの日比谷公園にはそれがあるというわけだ。

ところで、おれは日比谷公園に一度も行ったことがない。

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日比谷公園 (東京公園文庫【1】)

日比谷公園 (東京公園文庫【1】)

 

これの著者の前島の名も進士の本に出てきた。