『天馬賦』石川淳

とたんに、義足の憤怒をもつて、陽根が立つた。立つて、どうなるのか。ひとりぼつちの陽根であつた。(「天馬賦」)

 この短篇集を読みおへたのは二十一日か二十二日のことであつたが、その後にトマス・H・クツク(←眞ん中が顔に見へないか)とポール・オースターの長篇を読んだので、ついつい感想を記し忘れてゐた。この作品集には、六つの短篇と、「天馬賦」は中篇かな、全部で七篇が收録されてゐる。どれも戰後の燒け跡だとか戰國の世だとか舞台は違へども、何かスルリと自由へと拔け出てしまふやうな、そんなテーマが根柢にあるやうだ。「天馬賦」で大岳老人の語る絶對自由の精神といふやつかね。そうだ、そこら邊り『至福千年』を思ひだしたな。あと、孫のイヅミはこないだ讀んだ『白描』の少女と同じタイプの少女だな。どちらも冷たい感じもする活動的な女で、どこかへ去つてしまふ。
 この本の解説によれば、石川淳は「惡の藝術」「ウソの文學」といふ。確かにそのとほりだ。巧みに築かれた虚構の中についつい卷き込まれ、夢であるかのやうにふつと消え去る。まるで何かのまやかしのやうだ。ここで、亂暴にも近くに讀んだといふだけで、ポール・オースターを竝べて見やう。オースターの描く世界も虚構の世界だ。まやかしのような人物等がまやかしのやうな事をする。ところが、それはこちらの精神にグサリと槍を突き立てる。肉體の皮を剥ぎ、心の殻を破り、何かその核に爲る物を顯はにさせるやうだ。白晝夢のやうに我々の心を飛翔させる石川と、堅固な石を目の當たりにさせるオースター。俺は無學だから八百屋がトマトとキヤベツをさうするやうに竝べてみただけで、その違ひから何一つ導き出せない。
 もつとも、時間的な偶然から竝べただけで、何か導き出せる訳もない。ニュートンはリンゴが落ちるのを見て気が付いたのではなく、気が付いてゐたからこそニュートンのリンゴは落ちたのだ。もう一つつひでに付け加へるならば、俺の打つ舊字體や歴史的仮名遣いは出鱈目も出鱈目、インチキもいいところだ。けれど、ちよつと眞似したくなることなんて、誰にでもあることだらう?