http://darts.cool.ne.jp/an2/htm/1114472344.html
やっぱり人間は偶然直接目の前にいるものとか、知りあいとか、自分の好きなものとか、そういうものほど大事にしちゃうよね。エゴですよ。
そう、エゴなのだ。そう私は思う。まず人間のエゴを認めるところからはじめなければ、こういう話題はどうしようもないと思う。たまに、反捕鯨団体の「クジラを殺すな」に反発して、「賢いからといって、聖書に書いてあるからといって何なんだ。牛や豚を殺しているのに矛盾しているじゃないか」という意見を見る(上のだーつ氏のはそれにあたるかどうかわからない)。しかし、その矛盾は認めなければいけないのだ。牛も豚もクジラも犬も猿も雉もアメンボもオケラも平等ではない。生きているけど、友だちだったり、友だちじゃなかったりする場合がある。その立場によって変わってくるものだ。
その立場は、私の内面のイノセンス讃美や、(滅)の人の優先順位の問題(http://d.hatena.ne.jp/rna/20050426#p1)のように、一人の内面でも整理しきれるものではないと思う。さらに、文化内や宗教内で一貫して整理されている場合があったとしても、今のところ地球人すべてに及ぶ一貫性は存在していない。ならば誰もがやりたい放題なのかといえば、そういうわけにもいかない。極端な話をすれば、食人文化の国があったとして、その文化を認めるべきかという話だ。文化相対主義の立場の人でも、それは認める人はごく少数ではなかろうか。そこに一つ「とりあえず食人は止めよう」という共通認識ができる。もちろん、それに反対する人もいるだろう。
そんな風にして、人間は一つ一つ不器用にやっていくしかないのだと思う。野良猫の殺傷に抵抗を覚える人が多いので、とりあえず猫殺しは法で規制しましょうか、と。永遠の暫定と、とりあえず。そして、私はそれでいいと思うのだ。クジラ殺しに関する認識も、肉を食うことに関する認識も、永遠に相容れない人と人が居る。それは仕方のないことだ。
……うーん、なんか相対主義の陥穽にはまったような。しかし、創世論から一貫した体系を持つ宗教を信奉する人に対し、不器用な相対論を持ちかけることは、彼らの世界観の根本からの否定に他ならない。それを克服するには、最低限の共通認識が必要だ。それはやはりヒューマニズム(キーワードの人道主義を見て、手垢が付きすぎた言葉のようにも思うな。人間主義?、もっと、なにか、ざっくりした感じのやつだ)ということになるのだろうか。整理が付かない。頭を使うのは苦手だ。概念や形而上の事柄が苦手だ。もう帰ろう。