小事件

goldhead2005-10-24

 土曜日の夕方のことである。人を山手駅に送る途中のことだ。駅を見下ろす坂の上から、下の方で何かが燃えているのを見た。駅のそばのガードの下から入る脇道、車一台かろうじて通れるだけの細道。たき火をするには不自然な場所だ。近づいていくと、燃えているものが見えてきた。自転車だ。自転車のサドルが燃えている。サドルが燃えて溶けて、コンクリートの地面にしたり落ちている。あたりには嫌なにおいの煙。まわりには人が数人。小さな女の子とその母親。サラリーマン風の男性が二人。とにかく駅の反対側の交番へお巡りさんを呼びに行っているところだという。
 俺はとりあえず、すぐ先の駅まで人を送った。駅の改札の中からも、興味深そうに炎を見ている人が居た。すぐに踵を返して来た方にもどる。すると、若い警察官が一人走ってきた。走ってきて、燃えている自転車の近くまできた。きて、また走って帰った。事情が伝わっていなかったのか、手ぶらで来たのだ。再び警察官が去ると、中学生か高校生か、男女数人がやってきた。口々に「やばくない?」などと言っている。一人の男の子が近づき、燃えるサドルを足で踏んで消そうとしたりする。すると、中年の男性が、「いま、お巡りさんを呼んでいるから」とたしなめる。やがて、先程の警察官が年長の警察官とともに姿を見せた。小さなバケツを持っている。中の水をかけると、サドルの火はあっさり消えた。サラリーマン風の男が、第一発見者として事情を話し始める。はじめ自転車は、その目の前にあるパン屋の壁に立てかけられていたという。その様子を不審に思い、また、すぐそばにガス給湯器があったため、自転車を倒して炎を遠ざけたという。
 このあたりで、傍らの母子が立ち去った。若い母親は「あまり見るようなものじゃないからね」というようなことを言ったと思う。俺も潮時だと思い、彼女たちに続くようにスッと姿を消して、坂を上りはじめた。アパートに帰るまでに見かけた人物すべてが放火犯に見えた。俺は俺すら信用できないような気持ちになった。
 不穏、であった。ひとことで言えば、不穏。路地で燃える自転車のサドル、立ちこめる煙。小さく、取るに足らない炎。それでも、俺は不穏な何かを見た。ニュース映像で見るバリケード、転倒させられ、火をつけられた自動車。そういった市街地がどんな空気になるのか。それはもう想像もつかないほどの不穏さだろう。俺はそんなことを考えた。考えながら家路を急ぎ。部屋に入ってもわずかな動悸が残った。
 このちっぽけな炎のことは、新聞の地元欄にも載っていなかった。
(写真は翌日のもの)