『生命の意味論』多田富雄 その3

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第九章 あいまいさの原理

ゲノムというのは、DNAによって合目的に構築されたシステムではなく、自分のルールを作りながら生成拡大していった超システムの典型なのである。p192

遺伝子を読みとってタンパク質にする時に、飛ばし読みをしたり、適当な語句を入れたりという「編集」をしているのである。p193

細胞は、刺激があればそれにユニフォームに反応するといった単純な機械ではないのだ。それは、条件によって異なった行動の選択をする。ハムレットのように、‘to be or not to be’と迷うばかりではなく、もっと多数の反応様式を選び出す。生体はこうした「場」と「時」に応じた細胞の選択が集積されて、はじめてうまく運用されている「複雑系」ととらえなければならない。p210

 一時期ファジーという言葉が流行って、家電なんかも盛んにファジー、ファジーだった。先日、人の家を訪ねたら少し古い炊飯器があって、「ファジー炊飯」というボタンがあったのだが、炊飯のどこらあたりにファジーさが必要なのかついぞわからなかった。そんなわけで、炊飯器には必要かどうか分からないけれど、人間にとって多義性や冗長性は欠くことのできない要素だという話である。「複雑系」も一時期よく耳にしたが、複雑系炊飯機能付きの炊飯器があったかどうかは知らない。米粒一粒一粒が釜全体とホロニックな関係を構成し、重々帝網のご飯を炊きあげます。

◆第十章 超システムとしての人間

「Omnis cellula e cellula(すべての細胞は細胞から)」

 脳を作り出す遺伝手のプログラムはといえば、神経細胞の位置や放射の方向などを決めて脳の基本構造を拘束することはできるが、ひとつひとつの神経線維の結合までは規定してはいない。したがって、神経細胞の選択と淘汰による回路網の形成は、それぞれの個体に個別的に起こってくる。つまり後天的な生成過程なのである。このため人間は、遺伝的には決められない個体レベルの脳の多様性を持つようになるとされている。p220

 養老盂司氏は、現代文明の「脳化」ということを言われるが(『唯脳論青土社、一九八九年)、私はむしろ脳という特殊な臓器を超えて、人間の心の「身体化」ということがまぎれもなく起こっていると思うのである。P221

 養老氏の本はずいぶん昔に読んだが、「なるほど、唯脳なのだな」と思ったくらいしか記憶がない。しかし、今こうして著者の言うことを見ると、「心の身体化」の方がしっくりくるところはあると思う。おそらく、己の身体を客体化して、それを機能として捉えられるのは人間の特性であろうし、その機能性に改良を加えるのも人間だけだろう。そういう意味で、体を物として見ていると言えるかも知れない。そして、神秘の根源であった「心」(≒脳?)ですら、物として見ることができるようになりつつある。そのいい例が前にNスペでやってた(id:goldhead:20051107#p4)脳機能の解明とか改造とかそのあたりだろう。俺はどちらかというと、心なんて薬で解決できると信じる(あえて)タイプなので、こちらがしっくりくるのだ。脳なんてそんなに偉くないぜ。
 

都市は最終的に「自己」というものを持つようになると思う。p226

企業は、超システムとしてそれ自身が自己目的化している構造体なのである。p229

 ここに来て、最初に提示された身体―都市―……へ。すべての細胞は細胞から。言語については前に一章分割りあてられていたが、ここで一気に超システムとしての都市、企業などについて述べられている。では、都市の自己、非自己、免疫とは何ぞや、と具体的に思い浮かべるのも楽しいかも知れない。あるいは、問題を起こして大変な企業あたりに当てはめてみても面白い。そういえば、士郎正宗ウィリアム・ギブスンの描く「企業」は、まさに超システム的な容貌を持っているように思われる。

官僚制は必然的に自己目的化して増大していく。p233

多様性と冗長性は超システムの危機対応のための基本的な属性であるのだから、合理性だけでいたずらに切り詰めることは危険でさえある。p233

 国家における官僚制もまた超システム的であるという。たしかに、利権や天下り、ファミリー企業と縦横無尽に肥大化してきた日本の官僚制度は、その部分だけ見れば国家の癌みたいに思えてくる代物である。しかし、だからといって癌を単に切除しちゃいけないように、いたずらに合理性の刃をきらめかせちゃ上手くいかないかもしれないと。企業がリストラ、リストラで合理化を図って、その結果切り詰めてすぎてポシャる、なんて例もあるのかもしれない。

なぜ超システムなどといったこなれない造語を使ったかといえば、現在の私には生命の「技法」が、基本的には工学的機械のそれを超えているという基本的認識があるからである。p236

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 というわけで、大変興味深く読める本であった。無論、高卒無職の俺がわかったような気分になれる、というぐらいに。しかし、理系的知識に関しちゃ小学校三年生とタメを張るくらいの俺がよく読めたものだ。それには一つ著者のありがたい配慮があるように思われる。それは、以下のような構造である。
<少し細かい話になるが>
少し細かくて多少専門的な話
</これ以上は立ち入らない>
 ……という具合に、タグのように込み入った話に入る部分・出る部分がわかりやすくなっているのだ。セマンティック! さすがに読まないで飛ばしたりはしないが(もったいないので)、これでわけのわからなさをズルズル引きずって分かる箇所を見落とすというミスが少なくなるという具合だ。
 しかし、残念なところが一点あるとすれば、最終章の話題をもっと詳しく読みたかったというところ。要するに、身体外の超システムについての詳細である。しかし、ここらあたり、例えば脳について門外漢だとして踏み込まないように、科学的専門家としての立ち位置というものがあるのかもしれない。となると、「全体」についての野放図をやるのは、松岡正剛みたいな切った貼ったの編集屋がずばーっと横断するより他ないのか。しかし、読み物としてそれが面白くとも、学問上は上のタグの中、否、</これ以上立ち入らない>より先が全体に求められることとなるのだろう。そんなものあるかどうか知らないが、それは読みたいとも思えないのであった。