『ジョン・レノン対火星人』高橋源一郎

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 ついに読んだ。高橋源一郎の幻のデビュー作。
 高橋源一郎。この日記をはじめてからの記述は二作品、『あ・だ・る・と』および『競馬漂流記』。しかし、俺にとっての高橋源一郎といえば、なんといっても『さようなら、ギャングたち』(ASIN:4061975625……俺が実際に持ってるのは昭和57年のハード(?)カバー版)。俺はこれを中学生のころだったかに読んで、「こんなに完璧なものがあるのか」とすら思った。「詩だか小説だかなんだかわかんないけど、すごい」と。今でもその思いはまったく変わらない。
 高橋源一郎を俺に知らせたのは父だった。小学生のころだったと思う。父はなにか小説の話を俺にしていた。興味を持たせようとして持ち出したのが『ペンギン村に陽は落ちて』(ASIN:4087727149)だった。なるほど、小学生に興味を持たせようとするにはいい例だったかもしれない。ペンギン村の面々に、サザエさんウルトラマンたちが、徹底的におかしなことになっていた。子供には読ませられないようなところも多かったが。
 そのあとは、俺にとってお決まりの「父の本棚からの出会い」(id:goldhead:20060629#p1)。そこに、ボーダー柄のポロシャツに身を包み、氷川丸の前でポーズをとる著者の『ギャングたち』があった。帯、いやカバーには吉本隆明の推薦文があったように記憶する。父が高橋を評価して本棚におさめたのは、そのあたりじゃないかと思う。
 まあ、そんなわけで、近作をのぞいてほぼ読んできたわけだが、やはり一番は『ギャングたち』。長編の『ゴーストバスターズ』あたりを読んでもピンとくるのは冒頭くらいで、『ギャング』は不動の四番打者だった。俺の中の全読書十傑があったとしたら、打率三割五分六厘、本塁打四十一、打点百十三、くらいで上位の上位を争う存在だ。
 が、そこで気になっていたのが本作『ジョン・レノン対火星人』。俺が一番好きなデビュー作より、さらに前の作品というのだから。で、いろいろ復刊されてはいたのだが、ついつい巡り会わないままずいぶんたって、またひょんなことから気付いて買って読んだ。そして唸った。
 『ギャングたち』が上澄みをすくいあげた透明なところだとしたら、こちらはドロドロのどぶろく。後にも見られる作者のいろいろの要素がぶち込まれてる。そんな印象。暴力とセックスがつまっていてとっても乱暴なのに、それでいて叙情的。もちろん、言葉の切れ味はキレキレで、『ギャング』にひけをとらない。俺の中では、『ギャング』と一対の存在となった。
◇◇◇
 しかしまあ、講談社文芸文庫だけあって、解説も年譜も充実している。年譜などつらつら見ていて、僭越ながら俺自身と著者にいくらかの共通点があることに気付いた。これだけ何かが一致しているのなら、俺がその作家のファンになるのも当たり前とすら思う。「父が広島」、「夜逃げ同然の引っ越し」、「中高一貫の男子校」、「大学中退」、「競馬」、「野球」、「どすけべ」、「中学のころ澁澤龍彦(訳のサド)」、「金子光晴(は、この作者の本で名を知ったからちょっと違うか」、「(少女)漫画」、「横浜(本書もそこらへんがよく出てくる、元町、山下公園港の見える丘公園)」、「鎌倉(今住んでいるのかな? 本書にも大船など出てきた)」、「刑務所」……ときて、ここが決定的な違い。俺はなぜか刑務所、そして獄中記にひかれるのだが、この作者は刑務所に実際に引かれて行った立場。そう、俺の人生に革命も過激派もなかった。
 というわけで、内田樹という人の長く、すばらしい解説にあるように、この作品からそれは外せない。「過激派の時代を生き残ってしまったことの疚しさ」。俺は字面をなぞって小説を読んで面白い、つまらない感じるので精いっぱいなので、思想性や背景などむずかしいことはわからないが、なるほどな。『ギャング』もそれだったんだっけな。「過激派の時代」、俺とて多少の興味もあるあたり(何せ父がその時代のそのあたりにいたらしい人だし)。また、生き残ってしまったこと、に関しては、たとえば戦争体験者(id:goldhead:20060711#p4)のそれと近い部分もあるんだろうか。
 まあ、考えたってよくわからんし、時間もない。マントラー、マントラー、マントラー。