王貞治の帰還

http://www.nikkansports.com/baseball/p-bb-tp0-20070117-143507.html

リタイアする可能性も視野に入れながら

http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2007/01/17/01.html

途中リタイアする可能性を視野に入れながら

http://hochi.yomiuri.co.jp/baseball/npb/news/20070117-OHT1T00091.htm

途中リタイアするという可能性も視野に入れながら

http://www.daily.co.jp/baseball/2007/01/17/0000217172.shtml

「“途中リタイア”も視野に入れて」

 
 病を乗り越えて、王が還ってくるという話題。テレビでも会見の模様が映されていたが、この箇所、王監督は「視点に入れながら」とやや詰まりながら言っていた。そこに「視野」のテロップが重なったので気づいた。新聞などではどうなっているのかと見てみれば、やはり視野で統一されている。
 「視点に入れる」という言葉は別におかしくない。が、この文脈では「可能性」は視点の方でなく、視る対象であるところの野(範囲)にあると考える方が普通だ。「視野に入れる」がふさわしく、また、王監督もそう言いたかったと推測される。
 別に王監督が言い間違えた、なんてことはどうでもいいのだ。人間の口から出る言葉のいい加減さというのはかなりのもので、あまり実感できないという方は、一度講演会や座談会のテープ書き起こしでもしてみればいい。それらを活字にする場合、嫌でも編集が加えられる。
 我々に伝わる情報は全て編集されている。かといって、オリジナルに突き当たれば、そこに必ず真が含まれるとも限らない。編集の段階で編集者の意図による操作があるかもしれないし、技術的・時間的制約によって操作せざるをえない場合もあるだろう。編集者の無知や無配慮による結果的な操作もあるだろうし、オリジナルの意図に反さないどころか補強する結果となりつつも、オリジナルにはない要素が付け加えられることもあるだろう。
 それらこまごまとしたことに、情報の受け手がいちいち思いを巡らせなければいけないのかといえば、巡らせるべきじゃあないかと思う。メディア・リテラシーとかいうのがそういうものだろう。しかし、どうもリテラシー的に疑うといった場合、情報編集者の意図、思想とそれによる操作ばかりに目がいき、単なる空間上、時間上、純粋技術的な制約に対する無知を見ることもある。必要な編集とそうでない編集について峻別しないケースを見ることがある。たまに編集する仕事もする俺はそう思う。「ブログじゃないんだから、無制限に言いたいこと全部詰め込むわけにはいかないんだぜ」って。そこで述べられていないから、その人がそれについて無知である、無視しているとは限らないぜって。ただしもちろん、入ってしかるべき分量がありながら意図的に無視する場合だってある。
 ……とにかくめんどうだけれども、世の中は面倒なのだろう。日本野球はいつまでもONに頼ってはいけないと思うのだが、この件に関しては一球団の一監督であって、しかも結果を出してきているのだから、とやかくは言わない。それどころか、単なる根性論に陥らない王という男の、今シーズンの采配に注目したい。少なくとも多村仁より先にリタイヤすることはないだろう。