私はなぜ騙されるのかしら?

 私は発掘!あるある大事典2に騙された一人(→http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20061030#p1)。それで、私はもう、これ以上「あるある大事典」のようなものに騙されてはいけないと思った。私の脳に障害は無いんだから、もっとちゃんと考えてみなくちゃいけないと思った。
 私は、あるあるがとっても科学的な調査をしているから鵜呑みにしたの。そして、絶望におそわれた。でも、科学的な調査を疑う必要があったんだわ。だからといって、私がもうちょっとかしこくなったところで、人並みに科学や統計のことがわかる? とてもじゃないけれど、無理。もしも私が世の中の人の半分よりかしこかったとしても、残りの半分の人たちには簡単に騙されてしまう。
 だからって、もっともっと頑張って、ますますかしこくなったとしても、世の中の上位数パーセントにいるような人が、本当に人を騙そうと考えたものの前ではまったく無力に違いないでしょ。そうなのよ、絶望よ。
 だったら、すべて疑って、否定していけばいいの? マスコミの言うことはみんな嘘だって信じ込めばいいの? それは楽だし、賢さを気取ってられる。けれど、それで正しい情報、重要な情報まで逃してしまったらどうなるの? 日本の首相が安倍晋三だって信じないで、生きていける? どこかで判断しなくちゃいけない。
 それに、懐疑論的な姿勢も、かしこいものの前に差し出された格好のカモなのよ。さもテレビやマスコミのでたらめとは違いますよ、という顔で、とっても賢い人が騙そうとしているし、自分は賢いから騙されないと思ってる人ほど騙されると大きい穴に落ちる。オウム真理教に騙された人たちって、中卒のドキュンなんかじゃなかった。「自分の目で見なければ信用できない」というときの、自分の「目」(判断力)への過信が落とし穴。かしこい人はおろかな者をだませるし、五感なってのはもっと欺きやすい。
 信じるという判断を下す自分の能力に疑いをもたなければいけない。否定しようとする自分の能力に疑いを持たなければいけない。
 じゃあ、結局、何も判断できない。いったい私はどうすればいいの? 信じたり、信じなかったり、どこかで区切りが必要。信じたり、信じなかったり。
http://www.jra.go.jp/topics/column/etc/tetsu.html

一、「何々は脚がわるい」と云われし馬の、断然勝ちしことあり、またなるほど脚がわるかったなとうなづかせる場合あり、情報信ずべし、然もまた信ずべからず。

 そうだ、そんなこととっくに競馬に教わっていたんだ。ある情報のオッズを見積もることが大切。リスク、リターン、そして穴場にいくら突っ込むか。「納豆でダイエット」なんてのは、ローリスク、ハイリターンで、いくら買おうにもたいしたマイナスにはならない。でも、「この五百万の壷で幸福に」や「沈没船のトレジャー・ハンティングで三百万が五百万に」なんてのは、いかにも不利な博打だってわかる。
 ……いや、わかる/わからないではなく、絶対不可知な未来に対して、その時点でのオッズ、それに対する判断。では、情報の価値も、事後にしかわからないことに。いや、事後にわかるわけでもない。事後になったところでさまざまな解釈、ときには白と黒に分かれるもの。それもまた不可知(……しかし、科学、確定した科学、数式などは博打の埒外だろうか。科学は自然そのものなのだろうか。あるいは、科学も確定の赤ランプが永遠に点灯しないのだろうか)。不可知の前に不可知の姿勢を持つこと。肯定と否定の結論に至らず、その時々の馬券のことだけ考える。「本当に正しいのか、誤っているのか」については宙ぶらりんにしておく。それは宇宙の外のできごとだ。問題は、実際に自分はいくらのコストを支払うのか。コストは金銭に限らず、ある考え方を取り込んで自分のものとするアクション。未確定の馬券が我々の思考。しかし、思考、思想ならば、また馬券を買い直せることもあるか。しかし、買い直していったところで、払い戻し機に至って死ねるとは限らない、か。あるいは自らへの能力への疑いをまた自ずからだませる人間が、払い戻しを受けるのだろうか。それは受け取るべき払い戻しだろうか? 払い戻しを受け取れる人間が人を騙すのか? あるいは、はずれ馬券(と、自分が確定させたもの)を記念に取っておくのも、また何かになるかもしれない。