『誤解された仏教』秋月龍みん(みんは王へんに民)

誤解された仏教 (講談社学術文庫)

誤解された仏教 (講談社学術文庫)


 実際のところここのところ買い漁って読み漁っているのは鈴木大拙の本なのだけれども、なかなかまとめてどうこうということもできないくらいのディープインパクトであって、まったくどうしていいかわからない。読み終わったもの、また適当にページ開けば、新鮮に読める。ここまでの読書というのはいまだかつて無かったような気がする。いろいろな条件がフィットしたのだろう。
 でも、仏教の全体像……というと大げさだな、なんというか、教科書的なおおまかな知識、基本的にこれこれこういう考えがあって、この宗派はこんな感じで、あの宗派はあんな感じ、みたいな、そういうのが捉えがたい。空海がらみの本をまず読んで、そのあと禅がらみの本。真の理解とかそういうものでなしに、本当に大まかなところが捉えにくい。真言宗を見れば釈迦そっちのけで大日如来というし、あるいはお大師様を信仰すること篤い。一方で、浄土真宗となると阿弥陀如来となって、これも釈迦はどうなるのか。禅は禅で、何がもうどう仏教なのやら、という疑問がなんとなく残る(『禅』で「禅と仏教一般との関係」という一章を読んですら。この本では「禅は仏教の総府」と)。それで、たとえばじゃあ、葬式仏教と揶揄されるそこらのお寺はなんなのかとか、お坊さんは何のためにいるのかとか、多くの如来や天や明王はそれぞれに、それぞれの宗派にとってどんな意味があるのか、意味がないのか、結局のところ仏教が目指す世界は何なのか、何か目指しているのか、そういったところがつかみにくい。鈴木大拙の本からは得るところありすぎて困っちゃうのだけれども、もうちょっと別の、一般論的なあたりをざーっと知りたい。と、思ったが、どうもやはり宗派ごとの違い、あるいは何に帰一するかというところこそ、仏教学の肝心やもしれず、それこそ理解の及ばない話かもしれない。

 それで、この本である。伊勢佐木町ブックオフで見つけた。『誤解された仏教』なら、世間の誤解の方とこの著者の説く誤解でない方と二通り見られるし、この名前は大拙先生がらみで見た覚えもある。章の見出しに「日本的霊性」の文字もある。これならなんらかの尺度が得られるやもしれぬ、と思い手に取ったわけ。五百円。
 そしたらたぶん、これはかなりカリカリに仕上がった、ピーキーな仏教観、なのではないだろうかと思えた。なんとなくそういう気迫のようなものがある。序文で触れられているように、「学究各位への訴え」という、結構な箇所もある。とはいえ、ある程度は用語も見なれており、なんとなくの見方を知ることができたかもしれないが、勘違いかもしれない。あるいはまた、これとは異なる考えの在り方があるということについていくらかきっかけになったかもしれない。というか、この本も大拙さんの本と同じく深く考えざるをえないものであって、多少目的は外れたけれども、よい外れであったといえる。

 だいたいの内容は……各章の見出しを見返していけばいいだろうか。それに、これは物わかりの悪い俺にはありがたいことに、キーワードが何度も何度も繰り返して出てくる。アドビのトレーニングブックのような親切さといえる。たとえば次の言葉。

「仏法は無我にて候」(蓮如

 えーと、やっぱ、このまま理解の浅いまままとめられん。やめやめ。でも、「仏教は無我論である」、「仏教は無神論、無霊魂論である」、「仏教は輪廻転生を認めない」、「仏教は梵我一如ではない」と、まあ、なんらかの一つの見方だな。
 そうか、輪廻転生は否定される(考えもある)のか。「後有(アフター・ライフ)を受けない」と仏陀はおっしゃったらしいが、では覚らぬ凡夫はどうなるのか。「毒矢の喩え」で「答えない」、「無記」か。と、ここで説明を求めてはいかんということか。禅は「即今・此処・自己」(いま・ここ・じこ)のことでなくてはならん、というのはかっこいいな。梵我一如ではなく、物我一如、自他不二、不可分、不可同、不可逆……。空海の純密は大日如来と不可分、不可同、不可逆ゆえに梵我一如とは違うというが、何が違うのか、一緒なのか、難しいな。

 そういや、最近どうも俺の頭の欠点がわかってきた。三印法、三学くらいならまだなんとかついていこうかという気にもなるが、四諦となるともうちょっとという具合で、五蘊? 六根? 十二支縁起ともなれば見なかったことにする。十往心あっても最初の異生羝羊心のところどまりです、メェメェ。とにかく四以上は始末に負えない。無論、字面を追うだけの教科書的知識上でのこと。こんなんでよく今まで生きてこられたな。何か興味持つ前に、脳トレーニングが必要なのではないか。

 印象に残った、もうちょっと一般的なところを。

他人の過失を談じ、自らを讃め他を毀るのは、まだ真に釈尊の説く「無我」に徹していない証拠である。心の底のどこかに「おれが―おまえが」という自他の対立が、いわゆる「人我の見」が残っている。
 仏教者は、とかくみずからそれを思わないで、よく「法」のために、他を折伏する降魔の剣だという。しかし、ほとんどのばあい、それはうそである。

「法」のためといって争うとき、それはもう断じて仏教徒ではない。仏教は争わない。常に相手を拝んで生きる。

 ここんところは仏教に求めたいところだし、そうでないものはうそ、と断じたいところ。上の方の話の前に、日蓮さん(のかどうかわからんと前置きして)四箇格言を持ち出しているあたり、何らかの示唆とみていいのだろうかわからんが。下の話はすごいな。争いは修羅道だという。たとえば、こないだ寺の境内の樹を悪徳不動産屋が勝手に伐って、和尚憤慨、裁判所で白黒つける、なんてニュースがあったが、ああいう場合でも相手を拝んで見せるのが仏道なのかしらん。(※念のため調べたら神社の話だったので、この話無し、いや、仮定の話として)。

仏教では、学者が「真」を求め、道徳家が「善」を求め、芸術家が「美」を求め、宗教家が「聖」を求めるのも、すべて外にイデー(理念)を認めて求める限り「餓鬼」だと見る。

 悟りたい、という念こそが一番の雑念とかいう話だっけか。このあたりの徹底はおもしろい世界だと思う。あとあれだ、キリスト教の宣教師が浄土真宗を知って、あまりに自らの宗教と似ているので「悪魔が用意した罠だ」とか言ったって話は面白いな。浄土真宗は覚でなく信の宗教で、キ教と同じ方に分類されもするんだな。そのあたり、読んでみよう。あんまり仏教の仏教の本だと、サンスクリットの原典によれば……的な難しさでついていけないからな。