『ロスト・イン・トランスレーション』/監督:ソフィア・コッポラ

ロスト・イン・トランスレーション [DVD]
 これはいい映画だった。大傑作! とか鼻息荒くなるようなもんじゃないが、「いいもの見たなぁ」って気にさせてくれる映画だったぜ。俺は「ロスト・イン・トランスレーション」という言葉が好きで、映画も観ないでよく使っていたんだけど、作品もいいものでよかったわ。
 翻訳で失われるもの……。俺は翻訳物の小説をよく読むけれど、そこにはいつも、それに関しての意識があって、それがとても興味深く感じられてならないのだ。言語、その背景にある歴史・文化が違う、そこにかかる橋のこと。ひっきょうずるに、その橋はたとい同じ国で同じように育った個人個人の中でも必要なもの。翻訳という作業はそこのところのリレーションの喜びや悲しみを端的に表す物だからだ。人間同士のプロトコルがあるのならば、そのプロトコルこそが人間なのかもしれないと思うのだ。
 そしてこの映画も、主題はそちらだ。「アメリカ人が日本に来て、適当な通訳をされる」なんてのは最初の方にちょっと出てくるだけだ(この映画を観て「日本人が馬鹿にされてる!」とカッカきてしまう人は、ちょっと生きにくいのではないだろうか。バーガンディの妻や腸内洗浄の女、そもそも主人公たちの立場自体を見ろ)。あとは、人間同士の「ロスト・イン・トランスレーション」だ。かつて話が通じ合う間柄であっても、時ともに変化してしまうそれであったり、場所とともに変わってしまうかもしれないものだ。それを、必要最小限の台詞で、説明で、あとは主演のビル・マーレイとスカーレット・ヨハンセンが見せてくれる。東京の街並みで見せてくれる。そうだ、俺の基準で、車窓シーンのいい映画はいい映画なのだ。
 外国人が撮った日本の、日本人の姿は、普段われわれが見ているものとまったく違って見えるのが面白い。スナップ写真程度でも現れるものだ。この映画もそうかな? と、思っていたが、そうではなかった。東京のネオン、そして騒音、あの音、俺も参ってしまう音の洪水、ゲーセンやパチンコ屋の音、歩行者信号の「とおりゃんせ」、それはしっかりと、そのままに、そう見えるように収められているように見えた(高級ホテルの中身や、トーキョーのおしゃれ金持ちさんのクラブについては、まったく実情を知らないが)。十年後、二十年後、どう見られるだろうか。
 ミニマムさ、「間」の取り方、そうだ、それに音楽が抜群だった。はっぴぃえんどで日本人をくすぐってくれるとか、そういうもんじゃなくて、音楽よかったなあ。とりとめがないけど、こんなところで。